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虚空のマイケルの口はたわんでいた。
だけどエメラルドグリーンの瞳はどこまでも真剣で、樹洞の中にいる誰よりもマルティンさんのことを真っ直ぐに見ていると、茶色いマイケルは感じたよ。
「これは君たちにも話していないことだが」
隅っこから他のマイケルたちを見渡しながら「少しだけ昔の話をさせてくれ」と輝く瞳を過去へと向けた。
「俺の国には絶対に嘘のつけない仕組みがある」
あった、とは言い直さない。
茶色いマイケルは空の国シエル・ピエタで聞いた『信頼の鎖ネコシステム』の話を思い出した。それは大空ネコさまの力をかりて運用されてきた、空の国に住まうネコたちにとっては青空のように当たり前にある仕組みなんだ。
「その仕組みの中では、どんなに隠そうとしても嘘をつけばたちまち国中のネコに知れ渡ってしまう。そのため誰も陰口を叩かないし、誰もが清くあろうと心がけるんだ」
するとマルティンさんが、
「それはマザーネコAIのようなものか?」
と、左を向いて尋ねる。子ネコはすかさず「そうだ」と応えたよ。茶色いマイケルにはそれが何なのか分からない。
「マザーネコAIほど万能ではないが、『心の声』を直接とらえて本心を詳(つまび)らかにするんだ。そういう点では上をいく」
「心の声、か。確かにそれは。しかしどれくらい確実なのかね?」
「『絶対』だ。どんな些細な嘘も明らかになる。だからこそ俺たちは目の前の相手の言葉を疑わずにいられたんだ」
食い入るようなマルティンさんの目に、虚空のマイケルは少し困ったように笑い、「だが」と続けた。
「正直に言えば窮屈だったよ。特に幼ネコを卒業したばかりの俺にはな。何もかもを知られてしまう、それはイタズラざかりの俺をひどくつまらない気分にさせた。なにせ話をするたびに本当かどうかを審査されるのだから、嘘さえ仕掛けられない」
隣に座る灼熱のマイケルがピクッと耳をそちらへ向ける。
「その“つまらなさ”は次第に形を変えた。ある時ふと『脆弱』という言葉が降ってきたんだ。『もしかして俺たちはこの仕組み無しでは相手を信用することさえできないのか?』とな」
頼りすぎている。
ネコとはそこまで臆病なのか。
そもそもこんな堅苦しくて隙間のない信頼など必要あるのだろうか。
虚空のマイケルはある時期、1匹でずいぶんと悩んだらしい。
「ふん。頼れるものがあるなら全てを任せてもいいではないか」
口を挟んだのはケマールさんだ。だけど議論をしたいわけではないらしく、それ以上の言葉はない。
「俺は試してみることにした。ネコが、仕組みに依存するしかない脆弱な生き物で無いと証明するために、俺は、俺を使って試してみることにした」
なにを、と口にしそうな間があった。そこへ、
「俺は、『信頼の鎖』から外してもらったことがある」
一瞬の空白のあと、えっ、と飛び出したのは子ネコたちの驚きだ。初めて会ったときの、仕組みにどっぷりと浸かっていた頃の虚空を知っているからね、別ネコの話と聞き間違えたかと思って息を詰め、聞き漏らさないようにと耳をそばだてた。けれどそうではないらしい。
彼は子ネコたちの顔をいかにも真面目な顔で順繰りに見たあとで、
「せいせいしたよ」
両手を広げて笑ったよ。満面に笑みがあり、お腹の底でいたずらっぽい笑いがぴょんぴょん跳ねている。
「気持ちが弾んだよ。開放感でいっぱいになった。クモの巣を抜け出したチョウにでもなった気分だった。誰にも知られない自分だけの場所を見つけた気がしたんだ。孤高を感じることができた。高く高くのぼった気がして、そして――」
――遠くの空を見渡せた。
本当に気持ちよさそうに言う。
茶色いマイケルは、かつてその瞳に映ったという景色に惹かれ、まぶたを開けたまま思いを馳せた。けれど思い浮かんだのは真っ白な雪の中。どうしてだろう。そう考えようとしたところで「だが」と低い声に耳が引き戻されてしまう。
「しばらくして周囲の見る目が変わったんだ。腫れ物に触るように扱われ、いや、不気味がられていたと言ってもいい。そういう目だった」
不審の目は次第に言葉を持ち、ついには動きをみせたという。
「ある日、父上に呼び出された俺は、このままでは捕らえられてしまうぞと言われたよ。国の混乱を企んでいるのではという話がどこかから流れてきたらしい。処刑の話まで囁かれはじめたのだと慌てていた。
たかだか相手の心が見えないだけのことだろう。
地上ではこれが当たり前だというのに、なのに疑心にかられ、倫理観すらかなぐり捨ててしまうというのか、ここのネコたちは。心とはここまで貧しくなるのか。そう思うと本当に情けなくなった。あの時ほど世界を空虚に感じたことはない」
それは、絶望に近い感覚だった、と。
「俺は我を貫き通すか悩んだよ。こんなバカな世界で生きていくくらいならいっそ……とな。それこそバカな考えと笑うかもしれないが当時の俺は真剣だった。しかし父に『ずっとこのままでいるつもりか』と問われた時、『そうですとも!』という威勢のいい声は喉の奥に詰まって出てこなかったんだ。
嘘のない穏やかな世界でただ1匹。
猜疑の目を向けられたまま生きていけるのか?
想像して急に不安になったよ。そのときに分かったんだ。やはり俺も『仕組み』の恩恵を享受している1匹なのだとな。誰かを弱いと言い、俺のようにしろと言える強さは持っていないのだと」
虚空はその後すぐに『信頼の鎖ネコシステム』に入り直して潔白を証明したという。戻ってしまえば簡単だ、「潔白だ」と言えばいいだけなんだから。それで嘘がないことが証明される。とてもとても簡単だ。
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