(95)8ー13:虚空の空 後編 寂しがりの大空に

***

「マルティンさん、心とは空だよ」

 鮮緑の瞳に輝きが増した。

 虚空のマイケルのまっすぐな声に、マルティンさんの耳が立つ。

「誰しもが青空を抱えて生まれてきている。遥か彼方まで見渡すことのできる澄んだ青空をその内に宿してな。ところが悲しいかな空は曇りやすく、どこからともなくやってきた黒い雲によって容易に、向こう側が見えなくなってしまうものでもある」

 黒い雲。すなわちウソや欺瞞(ぎまん)のことだと彼は言う。

「だが、その空の向こうは本当に陰っているのだろうか。黒雲に目を奪われすぎて、その先の空を見ようとしていないのではないだろうか。

 黒雲は必ずしも、相手の中にあるとは限らないのだ。

 茶色たちと出会ったばかりの俺がそうだった。俺は自分で黒雲を作っていたんだよ。目の前にいる仲間ネコたちを見ようともせず、ありもしない疑念にばかり目を奪われていた」

「ならば君はっ」

 突然マルティンさんが身を乗り出した。彼はハッとして、

「君たちは、どうやって」

 と声を抑えて尋ねなおす。虚空のマイケルは微かにうなずいた。

「偉そうに言ったが、歩み寄ってくれたのは彼らだったんだ。晴れ渡った心を持った子ネコたちはまっすぐに手を差し伸べてくれた。俺の目を覆い隠していた黒雲の向こうからでも気にすることなく心をさらけだし、手を差し伸べてくれたんだよ。命さえ投げ出してな。だから俺は飛び込むことにしたのだ、彼らの空に」

「空に、飛び込む」

「恐ろしいと、そう思うだろうな」

 今の貴方なら、と。

「俺もそうだったよ。散々に不格好をさらして恥ずかしい思いをし、恐怖に慄き逃げ出したのは一度や二度ではなかったな。それでも彼らは見守って、待っていてくれたんだ。そして俺は、空に飛び込むことの喜びを知った」

 虚空は樹洞の壁から背を離し、

「信頼は心をつよくするよ」

 身体ごとマルティンさんへと向き直る。

「『嘘をつけない仕組み』の中にいた頃は、疑いようのないくらい相手の心が分かった。それはまっすぐに前を見ていられるし、だからこそ強い気持ちで前に進める。その仕組みから外れ、戻ったときに改めて感じたことだ。それも一つの強さだろう。

 だが俺は、今。

 仲間ネコたちに背中を預けている今が一番つよい。裏切りを恐れる心を振り切って、突き破って、前だけを見て進んでいける。最高速でだ! この感覚は何ものにも代えがたいよ。『心が見えない』と震えていた自分がバカらしくなる。相手の空に飛び込んだ結果手にしたこの開放感はまるで――」

 ――虚空を歩んでいるようなんだ。

 雪稜。

 茶色いマイケルの目の前にクラウン・マッターホルン頂上へと続くナイフの刃のような一本道が浮かんできた。その細い道の左右には、雲一つない空が延々と広がっている。

 大空の一本道。

 あの時の景色を今、虚空の瞳の中に見た気がしたよ。

「マルティンさん、信じるコツを知りたいと言ったな」

 成ネコは、別の景色でも見ていたように目の焦点を合わせ直してうなずいた。

「簡単なことだ。相手の空を直視すればいい」

「相手の空を?」

「ああそうだ。相手の空を見て、もしも黒雲が見えたのなら己にこう問い直す。『その黒い雲は相手が産んだものだろうか』とな。相手の行いを思い出し、その出どころを確かめる。

 その空に曇りがなければ特別だ。どんな黒雲であっても見なくていい。目障りな黒雲など、打ち払ってしまえ。その相手は特別なんだ」

 左手がサッと空を切る。

「信じることは喜びだよ、マルティンさん。信じていられるだけで身体は軽くなり、心が踊りだす。ゆえに信頼を目指す道は『喜び』でできているんだ。たとえ後悔することになったとしても、その分は喜びで元をとっている。損などない、リスクをとればいい。リスクを侵す価値がある。それだけで前を見て突き進める」

 だから、と子ネコは成ネコの肩に手を置いた。パンッと硬い音がする。そこは包帯で覆われていて、まだ痛みが引いているとは思えないけれど、マルティンさんはヒゲの一本もヒクつかせることなく虚空の瞳の奥に目を奪われていた。

「あなたはあの方に会いに行くべきだ。何を押してでも、他は放り出しても会いに行くべきだ、マルティンさん。そこで語り尽くせばいい。直接顔と顔を向き合わせて心を通わすんだ。互いの違いを知り、想像し、手をのばす。

 あの方も不安になっているかもしれない。すべてをさらけ出し、すべてを包みこもうとする大空はきっと、寂しがり屋だろうから。

 寂しがりの大空に手を伸ばしてあげてくれ。

 そうすれば空は進むべき道を示してくれるよ。

 眼前を覆うその黒雲に打ち勝ったとき、あなたはきっと誰かの先に立つことのできる存在になる! 虚空の空への導き手になれるんだ」

 ――勇気を持ってくれ、マルティン!

 大空に生まれた子ネコはそう言って、傷だらけで肩を落としていたネコの手を力強く握った。

 成ネコはしばらく声を押し殺していたけれど、しわしわに濡れた顔を起こすと、

「まったく。空に飛び込めとは近頃の子ネコはぶっ飛んだことを言う」

 ハハハと、ちょっぴり喧(やかま)しく笑っていた。

 銀色の樹洞の中がわっと明るくなった気がしたよ。子ネコたちの顔に笑みがさし、小さな神ネコさまたちも牙を剥くかわりにピョンピョン跳んでいる。騒がしくなってきた。

 そんな中、ふとケマールさんの顔が目に入る。

 マルティンさんとはまた違う、傷だらけの顔。何十針という縫い痕も、焼き潰された右目も、赤く剥きだしになった肉が盛り上がり、その惨たらしさはどれだけ見ても慣れそうもない。

 そんな成ネコの視線がいつのまにか、手を握り合う2匹へと注がれていたんだ。瞳には、照り返された樹洞の銀色が宿っていて、ゆらゆらと揺れているようにも見える。何を感じているのだろう。

 ケマールさんが顔をあげた。茶色いマイケルと視線がかち合った。

 ――あっ。

 その時、瞳の揺れの正体を見たような気がしたんだ。

 そこへ、

『お前たち、こんなところでモタモタしていていいのか?』

 いまだ耳慣れない声に呼びかけられた。

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