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言葉を持たない動物の思考。
それは、鮮やかな夢を見せられているようなものだ。
行動するために必要な判断はすべて、”感覚”というシンプルな、ひと塊のパッケージとしてまとめて受け継がれており、だから風に吹かれて走り出すときも、目についた若草に腹を空かすときも、その都度ごとに面倒な議論が頭の中で繰り広げられることはない。
『その日』までの暮らしは、まさしく夢の中にいるようなもので、『馬』は満ち足りた生を謳歌していた。
”起伏”などというものはなかった。
美しい山に生まれ、陽の光を照らす澄んだ湖の水を飲み、青々と茂った草を心ゆくまで食んで、そよぐ風に撫でられながら兄弟たちとどこまでも広い草原を駆け回る。
自分たちを害する動物はおらず、自分たちも他の動物たちを害することなく、ただすべてを”感覚”に任せて、苦悩することなく、起伏のない日常を楽しんでいればよかったのだ。美しくも単調な生活。それを退屈とは思わず、心から幸せと感じられることこそが、言葉を持たないこの馬にとって最大の幸福だった。
馬は、生を謳歌していた。
その馬の物語に、”起伏”などは必要なかったのだ。
そんなもの、馬にしてみれば害悪でしかない。
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『その日』の空はいつになく暗く、しかも雨も降らないのに雷ばかりが鳴り響く異様なものだった。
『馬』は、空の気まぐれで焼かれてしまわないよう、3匹の兄弟馬を引き連れて”洞窟”へと潜んでいた。そこはネコたちの残した備蓄庫で、作りが頑丈だったために、山が荒れた日にはいつも身を寄せていた。
他の動物たちも集まるがケンカなどにはならず、ただお互いと雨の匂いとを嗅ぎながら、空の機嫌のなおるのを待つ。
しかし、どんなに丈夫な”洞窟”であろうと、山が崩れてきては潰されてしまう。
地面が揺れはじめたのをきっかけに、馬は震えるような声でひと鳴きして、兄弟馬たちと共に倉庫から駆け出した。他の動物たちもそれぞれの”感覚”に任せて飛び出していたものの、その大半は流れて来た土砂に埋もれてしまったらしい。
馬はその様子を視野に捉えつつ、安全な場所を探す。
空からは雨の代わりに礫が降っていた。小ぶりな岩ほどもあるその礫が、末の兄弟馬の頭を潰した。3匹の馬たちは前脚を跳ね上げて嘶き、しかし立ち止まることなく全力で走った。
3番目の兄弟馬が速度を上げ、こっちへ行こうと森への道を先導する。雷の落ちる危険のある中、木々を分け入っていくことに躊躇った馬の足は自然と鈍った。それでも礫を避けるための”傘”が必要だと森へと入ったのだが、馬たちを待っていたのは火だった。
火はたちまちのうちに膨れ上がり、先行した3番目の兄弟馬を取り囲むと、炎の壁の向こう側へと連れ去ってしまった。鳴き声は大木の倒れる音に押し潰された。残された2匹の馬はもうもうと立ち込める煙の中、声をあげることさえ出来ないまま森を後にする。
その森を出た直後のことだ。
山が欠け、落ちて来た。
岩が大きく欠けるところは見たことがあったが、山そのものが欠け落ちてくるところは見たことが無い。2匹の馬には、それが遠くのどこかで起こっていることのようにしか思えず、”欠片が大きくなる”ところをただ立ち止まって見ていた。
穏やかな日々に帰ってきたような、静かな時。
だがそれも、ほんのわずかな間だけだ。
ひとたび”山の欠片”が斜面に触れると、雷よりも低い音をたて山肌を削りながら滑り落ち、いくつもの破片をまき散らして地面を叩いた。馬は何度もその場で飛び跳ね、波打つ大地から逃れようとするが、よろけて倒れてしまう。足に熱を感じた。それが全身に広がっていく。あまりのことにそこで一度意識が途切れた。
気付けば揺れが収まり、空に清々しさが戻ってきていた。またいつもの鮮やかな山の景色が広がるものと、漠然とした”感覚”が胸の内にはあった。
ようやく終わったのだなと、馬は立ち上がろうとして、しかし這いずるばかりで力が入ってこないことに気付く。しばらくじたばたと暴れたあと、腫れあがった細い足をゆっくりと地面におろした。
その足の先に、2番目の兄弟馬の姿を見た。
最後に残った兄弟馬は仰向けになり、”山の欠片”から散った巨大な瓦礫を胴に乗せて、細く白い息を口からのばしている。白目の多い眼球が、ぎょろりと馬へと向けられた。
馬は腹に力を込め、思いきり嘶こうとしたけれど、あくびほどの音も出なかった。そうして、互いに声を掛けあう事さえ出来ないまま、2番目の兄弟馬の瞳はつやを失った。
馬は1匹になった。
馬は、かつて嘶いた自分の声を、頭のどこかで聞いていた。
また、揺れが始まった。
空が暗くなり、山の欠片が降ってくる。
馬の”感覚”に、これ以上の判断は刻まれていない。
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景色が一変した。
まず目に飛び込んできたのは鋭い牙を持つ肉食獣の姿だ。山では決して嗅ぐことのない、血肉を貪るもの特有の体臭。しかし怖さは感じない。次にその猛獣よりもよほど畏怖すべき存在の気配を感じ、さらには周りを埋め尽くすネコたちの姿を見た。いつの間にか治まっていた足の痛み。むっとするほどの温かみ。
それらから感じたのは安らぎだった。
自分の中に何かが満ちていくのを感じた。
けれど馬はその安らぎを拒絶する。
どの安らぎも”起伏”の一つなのだ。それらは全て、”穏やかな日常を奪わた馬に訪れた一時の安息”でしかないのだ。見知らぬ土地に連れて来られ、戸惑いで発狂しかけたところにすっと差し出された食べ物も、大穴に落ちていくところを抱きかかえられ、ゆっくりと地に足をおろしてくれた体温も。それらに感じた”安らぎ”はどれも、結局は”起伏”の一つなのだ。
どんな安息も、次に訪れる不幸への坂道でしかない。
そうして平穏が乱されるくらいならば安らぎなどいらないと、馬は、その”感覚”に刻み込んだ。
本当に、”起伏”などというものは害悪でしかない。
ただ、自分で草を食む以外の食べ方をしたことのない『馬』にしてみれば、他の動物から食べ物を口に運んでもらうという経験は、氷漬けになった後にも覚えていられるくらいには、心地よいものだったらしい。
馬は、泡となり黒い靄となり、他の動物たちと同じように、星の芯を目指して宝石の海へと潜っていった。
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