4-35:カーテン登りの果てに

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 子ネコの頃、よくカーテン登りをした。

 幅広のカーテンに飛びつき、爪をひっかけてへばりつく遊びだよ。

 どうしてカーテンにへばりつきたくなったのかは覚えていないな。下から見上げた波打つ布が「どこまで登れるかな」って言っていたのかも。本能的なものだと思う。

 ただね、カーテン登りをすると必ずと言っていい程、身動きが取れなくなる。爪が布地の向こうまで刺さりすぎて抜くに抜けなくなったり、片脚を外そうとしてもヒラヒラしているから押しても引いても引っ付いてきたり、そもそも位置取りが悪くて不安定になり、ゆらゆら揺れて恐ろしくなっちゃったりね。

 そういう時は決まって後ろを振り返り、床との距離を確かめてから思い切って飛び降りるんだ。

 茶色マイケルたちは今、泡を吹きつけたような分厚い雪壁を登っていた。

 両手に持った2本のアイスバイル、その鎌のような刃先と、アイゼン・キャット・ウォーカーの爪先だけで、垂直かそれ以上の雪壁を登っていく。接してる部分といえば3点か4点の、わずかな先端だけなんだから怖くないと言ったら嘘になる。

 だけどカーテン登りの時とは違い、4匹の子ネコたちはサクッサクッと小気味良い音を立てながら、少しずつ、だけど足取り確かに登っていた。後ろを振り返ることがあってもそれは高さを見て震えるためじゃなく、仲間ネコたちの様子を伺うためなんだ。

 先頭を行く虚空のマイケルが振り返り、しかし特に何も言わず、口元に白い息だけを見せると再び登っていく。それを見て茶色いマイケルは、

 あ、あそこは草付きなんだな。

 とその場所をしっかりと目に焼き付けた。凍った草があるとアイスバイルが刺さりづらいだけでなく滑りやすいからね、避けて進まなきゃいけない。狭くとった両手の間隔や、やや高めに位置取りしてある右足を見れば、次に進むルートが左寄りだということも分かるよ。

 わ、あの壁、反り返ってる。

 ネズミ返しのように張り出した雪壁は、腕の力だけで登るんじゃなくって、天井にへばりつくヤモリのように、胸も腰も雪壁から離さないように登るんだ。

 そういうことを虚空のマイケルは後ろ姿で教えてくれる。

 ここだ。ここを蹴り込むように力を入れると身体がすっと持ち上がる。その勢いを使ってここに右手のアイスバイルを引っかけるんだ。それから左手はこっち。重心を意識すれば身体は安定する。さぁ次は君の番だ茶色いマイケル。

 声が聞こえてきそうな登り方だ。

 まるで危ない場所が見えているかのように、気付けばいつも難所を率先して進んでくれていた。

 一面は固い雪に覆われているから起伏さえほとんど見えないはずなのに、虚空のマイケルの後ろに続いている時だけは、無いはずのものが見えてくる。見えなくても見えるのを感じる。そんな安心感で、ついしっぽも揺れちゃうね。

「いよいよ頂上が近い。ここで一息つこう」

 虚空のマイケルは、ネズミ返しの雪壁を登った先に休憩できる場所を見つけたらしく、岩に支点をとってから、まだ登っている途中の3匹にそう呼び掛けた。ずっと声を聞いていた気がしたけれど、生の声はもう少し生真面目みたいだ。

 そこで突然、一番下を登っていた果実のマイケルが声を上げた。

「わわっ、水が出て来たぁ!」

 まさか、こんなに寒いのに水!?

 辺りが氷点下を大きく下回っているのは明らかで、水なんて流れようものなら瞬時に固まってしまうだろうと思ってたんだ。だけど下に目を向けると確かに、果実のマイケルの頭一つ分くらい上からダバダバと水があふれてきている。

 水はみるみるうちに果実の周りの雪へと伝い、ところどころで岩をむき出しにしながら、足元に達しようとしていた。

「アイスバイルはつき立たんのか」

「やってるけどぉ……んっ、雪が薄くなってきててぇうまく刺さらないんだぁ」

 手首のスナップを聞かせてアイスバイルを突き立てる。でも、シャクッと水気のある氷の音しかない。あれじゃあ体重をかけた途端に外れちゃうよ。とても身体はあずけられない。

 果実のマイケルはアイスバイルを腰に下げなおし、クライミングネコグローブで岩を直接つかもうともしたけれど、濡れた壁は思った以上に滑るらしく、成果は上がらなかった。すると、

「待っていろ、今ワシが行く」

 と言って灼熱のマイケルが傍らに手早く支点を作ろうとする。そこへ、

「いや、2匹はすぐにここまで上がって来てくれ」

 と虚空のマイケルから声がかかった。まさか置き去り!? とはっきり思ったわけじゃないけれど、上を見る目は驚き混じりだったはずだ。その眼差しに対する虚空のマイケルの返事は、

「流動ネコ分散だ」

 の一言だ。

 なるほど、と茶色いマイケルは頭の中で、教練で繰り返した手順を思い出す。

 まず虚空のマイケルが、ネズミ返しの雪壁から3本のザイルが垂らした。ザイルの先にはカラビナがすでに結ばれていて、子ネコたちはそれぞれの腰ベルトにカチリとはめた。

 次に灼熱のマイケルがテンションのかかったザイルをうまく使い、雪壁を歩くようにスタスタと登っていった。上に着くと、その腕力でもって茶色いマイケルの登攀を手伝った。

 上に昇った灼熱と茶色の2匹は、ネズミ返しの雪壁の向こうに用意してあった支点と腰ベルトを結び、さらに3匹で横並びになって、中央の虚空のマイケルに引き上げ用のザイルを託した。それを束にして下に垂らす。

 最後に、束になったザイルを果実のマイケルが受け取り、装着する。

「落ち着いて登るんだよ。アイスバイルは手放さないようにね」

「ワシらが支えておる、落ちても構わんぞ」

「右がいい。そちらの雪は層が厚くてちょっとやそっとじゃ崩れない」

 果実のマイケルは唾を飲み込んだような小さなうなづきで応え、そうっと身体を右にずらしていく。右アイゼン・キャット・ウォーカーの爪先が雪を捉えた。遊んでいた右手のアイスバイルも同じく右へと伸ばす。

「君の身体ならもう少し先へ伸ばせばより重心が安定する。あと3センチ頑張ってみよう」

 言われたとおりに手を伸ばし、そこで手首をスナップさせた。

 キンッ、と雪に噛みついて捉えたいい音がする。その瞬間だ。

「あっ!」

 水に浸された雪がずるりと剥けて落下。果実のマイケルの左手脚も一緒に流され一瞬身体が浮きあがる。茶色いマイケルたちの持つザイルも勢いよく引っ張られ踏ん張りを求められた。それでも勢いと重さは3つの支点で分散されているからね、果実のマイケルを宙づりにしたって、まだ余裕があるのさ。

「間一髪、だったね」

 白い息がポッと口の周りを覆った。

「ありがとぉ、助かったよぉ」

 無事に岩場までたどり着き、灼熱のマイケルによって引っ張り上げられた果実のマイケルは、興奮気味にお礼を言っていた。大丈夫と分かっていても、宙づりになるのはやっぱり怖いよね。

 休憩をしているあいだ、4匹の子ネコたちはほとんどしゃべらなかった。しゃべったとしても装備の確認やネコ高山病のチェックくらいのもので、いつも軽口を飛ばしている2匹でさえ、静かに息を整えていた。

 疲れが無いわけじゃない。だけど無口の理由は違うと思うんだ。

 あと10メートルもない雪壁を登った先。その向こうには……っ。

 冷たい空気をゆっくりと吸い込む。

「予定より早いが行こうと思う、どうだ?」

 虚空のマイケルの誘いに、嫌がる顔は一つも無かったよ。

 4匹は登った。10メートルの雪壁をもくもくと、早鐘を打つ鼓動に焦ってしまわないよう気をつけながら登って行った。登ることしか考えていなかったからかな、どこをどうやって登ったのか鮮明に覚えているくらいさ。

 そして、その先に、頂上へとつながる細い道を見た。

 幅の狭い雪稜。

 遠くからこの山を見た時の、一番上の輪郭線に当たる場所だ。

 細い道の左右はどちらも痩せていて、雲一つない空が延々と広がっている。

 虚空・茶色・果実・灼熱。

 4匹のマイケルたちはそのナイフの刃のような雪稜――ナイフリッジの上を、向こう側にある頂上目指し一列になって進んで行く。

 大空の一本道。

 綱渡りみたいに両手を広げてバランスを取りながら渡れたらきっと楽だっただろうな。実際は、なぜかそこだけふかふかのパウダースノーで、子ネコたちは腰まである雪をかき分けながらゆっくりゆっくりと進まなきゃならなかった。その上、雪庇まであるんだから気なんて抜いていられない。

 おそらく世界で一番高い一本道の上で、茶色いマイケルが考えていたのは他のマイケルたちのことだった。

 このくらい雪をよけておけば通れるかな。ここは雪を残しておいた方がいいかもしれない。あそこは危なそうだからザイルを引く準備をしておこう。荒い息が聞こえるな、少しペースを落とそう。立ち止まらせないようにちゃんとついてきていることを音で知らせないと。

 普段の何倍も、お互いのことを見てきたよ。

 振り返らなくても、どんなふうに雪をかき分けて歩いているのかが想像できた。前を行く虚空のマイケルの残した雪分けの跡だって、言葉以上に何を考えていたのかが分かった。

 4匹は今、全く、一本のザイルで繋がっていた。

 それが何より、たまらなく茶色いマイケルの鼓動を早くさせたんだ。

 そしてついに。

「やっとだね」

「うむ。ようやくだな」

 長かったような気もする。だけど辿り着いてみればあっという間な気も。

「こんなところ、よく登って来たよねぇ」

 ナイフリッジを渡り切ったその先。

 それ以上の道はなく、この山の最高到達点。

 頂上。

「本当に、よく登って来られたものだ」

 そこには何もなかった。

 ちょっとした広場程度の足場の先に、尖った岩がつんと突き出ているだけで、他には何もない。

 安全柵も手すりも記念碑もなく、ただ少しの雪と、空と、それぞれの山の頂上だけが、遠く緩く円を描きながら連なって見えるだけだった。

 神さまの造った山脈、神造山脈クラウン・マッターホルンの頂上は、清々しいまでにさっぱりとした、頂上という名前の、なんにもない場所だったんだ。

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