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びゅうびゅうと吹き上げる谷風が、追いつこうとする子ネコを邪魔してくる。声はかき消されてしまい、風音で耳が切り裂かれそうだ。
茶色いマイケルは、5万メートルからの降下にも無かった怖さを感じていた。
意識不明の状態で落ちていく仲間ネコを、大空の神さまの補助も、パラシュートも、命綱さえなく追いかけていくただの落下。しかも崖スレスレ。
「んっ」
恐怖にふたをした茶色いマイケルは、ネコダッシュで崖を蹴ると、ギュンと谷風をつらぬいて虚空のマイケルとの距離を大きく縮めた。崖からせり出した岩の先端がネコジャケットを勢いよく裂き、中に詰まっていた羽毛を破裂したように撒き散らす。
「あれは!?」
目を見開くと、ぐにゃりと力なく落ちていく虚空のマイケルの向こうに、大岩が見えたんだ。あんな岩に頭から落ちれば脳みそバーンに違いない。
痺れた足にめいっぱい力を込めて岩を蹴る。一気に距離を寄せ、ダメ押しにもう一蹴りして、思いきり手を伸ばせばついに、虚空のマイケルのしっぽをつかまえた。引き寄せて抱え込む。あとは大岩……!
だけど蹴って避けられる位置にはない。
判断は一瞬だった。
激突の直前にぐりんと半回転し、ザックをクッション代わりにして大岩を弾いたんだ。痛みを受ける覚悟はしたつもりだったけど、この鈍痛にはまた別の気持ち悪さがあって、頭の先へと押しよせた生ぬるい重みで気を失いそうになる。
でも助かっ……。
た、と思いかけた矢先、谷底が目に飛び込んできた。
痛みと興奮とで視界がチカチカする中、考える時間が欲しいと思いながらも、茶色いマイケルの頭の中には助かる方法が1つだけ思い浮かんでいた。芯を使えばいい。浮いてしまえば問題ない。2匹分を支えて浮いていられるかは分からないけれど、きっと死にはしないはずだ、てね。
だけど……。
それは神さまたちの戦いの引き金になる。
空が裂けて大地がズタズタになり、川も、山も、海も、荒れ狂って星は震えっぱなしになる。どれくらい続くのかさえ分からない。何度も想像して、頭から布団をかぶったことを思い出す。
きっと、たくさんのネコたちが犠牲になるんだ。
「それでも」
茶色いマイケルは、腕の中でぐったりしている、一緒に山を登ってきた子ネコに意識を向けた。
メロウ・ハートのネコたちどころか、スノウ・ハットのネコたちの顔でさえ、全部は知らない茶色いマイケルにとって、その腕の中にある冷たさは、どうしようもないくらい生々しいものだったんだ。
びゅう、と吹いた風の囁きかけに、茶色いマイケルはゆっくりとうなづいた。
「ごめん、みんな」
口元でつぶやく。一回だけ瞬きをした。
その時だ。
うるさいくらいに鳴っていた風の音がすっと止んで、まぶたの裏に優しく微笑みかける1匹のネコの顔が浮かんだんだ。温かみも柔らかさも、そこにあるはずがないのに胸の奥の奥から湧いてきてありありと思い出せる。何よりも確かに感じられる。
優しい声が茶色いマイケルの名前を呼んだ。
びゅう、と風が音を取り戻した時にはもう、考えが180度くるりとひっくり返っていたよ。
気付けば仄暗い谷底がすぐそこにあった。間もなく子ネコの残り時間は終わる。茶色いマイケルは最後とばかりに風を受けながら、急かされるように覚悟を決めた。
「ごめん虚空。せっかく助けてくれたのに」
びゅうびゅうと風が鳴る。
茶色いマイケルは抱えた子ネコの顔を見ることができなかった。
「心を開こうと頑張ってくれてたの、嬉しかった」
びゅうびゅうと風が鳴る。
雪を眺める眩しそうな目が浮かんで、わっと涙が溢れた。
「ごめん虚空……ごめん」
びゅうびゅうびゅうぅ。
――ごめん!
ひときわ強い風が吹いた。うまく乗れば身体を持ち上げるほどの強い風だ。風は2匹のマイケルを思い切り吹き上げ落下の勢いを殺し助けて、くれたりはしなかった。
ケラケラケラ。
腹の底から込み上げてきたというように、底意地の悪い笑い声が耳元で、耳の奥で、頭の中で響いたよ。
地面が見えた。茶色いマイケルは虚空のマイケルを強く抱きしめ、それからぎゅっと目を閉じた。真っ黒だ。
あまりに痛いと、それが衝撃かどうかも分からないらしい。ただ揺れた。
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