(124)10-1:星の芯へと至る道 キッツ・コティ・ローグ

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 砂を恋しいと思う日がくるとは。

 過ぎ去る景色のあまりの速さに、ケマールは時折、長い瞬きをした。潰れた右目の肉を撫で、見えていればこの景色も目で捉えることが出来ただろうかと、仕様の無いことを考える。

 奇妙な場所だ。

 微かな記憶に残る森とも、住み慣れた偉大なる砂の大帝国とも違った、理からして違う絵物語の世界。しかし意味が分からない。どうしてこの場所に来たのか全く心当たりが無かった。“嘆き”がどうだこうだと聞きはしたが――。

 ケマールは右手の先をうっとりと眺め、その名を心のなかで呼んだ。

 満ち足りていた。そのはずだ。

 だというのに妙な心地だった。目の奥がざわざわと急き立ててくるのだ。毒に侵された肉を削いだあと、まだ残っていまいかと心配していた幼い頃のような焦燥感。動揺しているのか? しかしなぜ。原因は何だ。何が怖い。何を怖がって……いや待て、怖いだと。俺が? いつからだ。

 膨れ上がる焦りに毛が逆立った。そこにチカッと銀色の何かが目につき刺さる。

「光か」

 ただの光。

 ふと、あの子ネコの言葉が聞こえた気がして、ヒクッ、ヒクッ、と顔が小さく痙攣した。そのわずかな振動がヒゲを伝って響いてくる。

 耳障りな。

***

 ぴゅー ぴゅー

 向かい風が耳をかすめるたびに心地よい笛を吹いていた。

 子ネコたちはマークィーの背に乗り、橙(だいだい)に輝く光の一本道を駆けている。沿道はなく、道の向こうは消しゴムで消したみたいに真っ白だ。雪とは全然違う白色で、それはそれでキレイだけれど落ちたら消されてしまいそう。ここは芯が使えないから十分に注意が必要だ。

 ただ、今は前だけを見ていたよ。残りの道はぜんぶ見えているんだ。

 まっすぐな登り坂のいちばん向こう、針の先みたいに細くなったあたりから、道は迷路みたいに分かれはじめる。そこはグネグネぐるぐると、ずいぶんと複雑な道になっているけれど、最後の最後は一本道。集まった道はゆるく左にカーブしながら、とっても大きな球へといきつくんだ。それが星の芯だと風ネコさまは言っていた。

 キッツ・コティ・ローグ。

 それがゴールへと続くこの道の名前だよ。

 茶色いマイケルは、マークィーの背中の毛をムシャッとつかんだ。

『やっぱりすげーなー』

「もう、まだ言ってる」

『だってよー、神と戦って勝ったんだからなー、すげーぞー』

 風ネコさまは雷雲ネコさまとの戦いをすっかり気に入ったらしく、この輝く道に入ってからというもの興奮しっぱなしなんだ。茶色いマイケルの頭の周りをひゅるひゅると飛びながら、ごきげんに口笛を吹いている。

「みんなが助けてくれたおかげだよ。話の運び方も、雷の避け方も、透明な攻撃だって全部聞いたことだしね。教えてもらってばっかりだ」

 それでも話し続ける風ネコさまは、「あのねあのね」と楽しかった事を思いつくままに話す子ネコみたいだった。

 その様子を見ていると、茶色の抱えた罪悪感がいくらか和らいだ。

 結局、風ネコさまには“罪”の話をしていないんだ。時間もなかったし、どこまでを話せばいいのかが分からなかったからね。それに風ネコさまがどうして罰を受けているのかも分からないままだった。

 ――まー、あとはゴールすりゃ分かるし、いーんじゃねーのー?

 と言ってくれたのが救いかな。こうして楽しそうにしている姿を見ていると、それでもいいかと思えてきたよ。

『お気に入りはアレだなー、ライオンの口からペッて出てきたやつ。アイツめちゃくちゃ怒ってたのにネコ吐いたんだもんよー、ちょー笑ったぞー』

「そんなふうに見えてたの」

 想像すると苦笑いを隠せない。

『他にも、おもしれーこといっぱいだったなー』

 そう言って挙げられたのは、どれも危機一髪の場面ばかり。「必死だったんだからね」としっぽを握りたくなってくるけれど、もちろん水を差すようなことは言わないよ。ただ、

『そーだ、先に行って他のヤツにも教えて来てやるよー』

 その言葉には笑顔が固まった。

『ゴールするときによー、またワーってなるの見たいしなー。雷雲をとっちめたって知れば他の神も見直すだろーなー、ネコー』

 子ネコの前を左右に飛び跳ねる風ネコさまに、悪気なんてものは見当たらない。それでも、

『なんかもらえるかもしれねーぞー?』

 その無邪気さが、やけに胸を引っ掻いたんだ。

「そんなことしちゃダメだ!」

 怒鳴り声に気がついたのは言い終わったあとだった。あっ、と思わずマークィーの毛を離してしまいそうになる。風ネコさまはムスッとし、『なんでだよー』と宙に浮いたまましっぽを立てた。

 茶色いマイケルはしゅんとする。神さまが子ネコを喜ばせようとしたのは明らかだったんだから。それでも、「ごめん」の前に言ってしまう。

「もう、終わってるんだよ。誰も悪いことはしていないんだ。だから」

『でもよー、雷雲のヤツはワリーことしてたじゃねーか』

 チリッと目の奥が焼けた。

 目を閉じなくても浮かんてくる、うつむいた神さまたちの顔。

 裏切られた者。知らずに誰かを被害者にしていた者。裏切った末に何を失ったかを知った者。去り際、雷雲ネコさまの足にはどれほどの重りがついていたのだろう。傷ついていないはずがない。みんな、誰かが責める以上に自分たちを責めてるはずなんだ。後悔で狂ってしまうほどなんだから。

 風ネコさまだって、表の世界の姿と見比べれば後悔の深さが見えてくる。話してあげられるのならそうしてあげたい。「すっごく苦しんで、大変な思いで決断してたんだよ」って。そう思いながらの言葉だった。

「誰かが許したことを、面白半分で引っ張り出しちゃダメなんだ」

 できるだけ柔らかい声で言ったつもりではある。ただ、伝えたい思いが強いほど、身体のコントロールは難しいらしい。いいや、気持ちだって抑えきれていない。声を荒らげてしまったことに「ごめん」のひと言さえ言えていないんだから。

 風ネコさまはプイとそっぽを向いて、なんにも言わずにふよふよと浮いていたよ。

 橙に光る道がどれくらい流れただろう。ずいぶん長いことそのままでいたような気がするな。だから焦れたのかも。しばらくして『ふーん』と応える風ネコさまに、つい口を尖らせてしまった。

「言っちゃだめだからね」

『……んー。わかっ――』

「ほんとにだめだよ?」

『わかったってー』

 すねた子ネコみたいな声の奥に、小さな風ネコさまが見えた気がした。それを聞いてようやく、子ネコの中にこみ上げていたものが下がっていくのを感じたよ。ただ、

「ならいいけど」

 その言葉がどうにも気に入らなかったらしい。

『えらそーにー』

 風ネコさまは振り返りざまにしっぽを振り回し、茶色いマイケルの頬をペシペシ叩いた。そして、

『追いついてみろー、べー』

 後ろ足2本で子ネコの顔面を蹴りとばし、「ふぎゃっ」という茶色の声を置いて走り出す。後ろ姿があっという間に点になっていたからね、追いかけるのは一瞬で諦めた。

 向かい風がぴゅーぴゅーと木枯らしみたいに責め立ててきた。茶色いマイケルは両手で顔を覆ってうなだれて、深いため息を吐くくらいしかできなかったよ。

「行ってしまわれたな」

 しばらく経ってからかけられたその言葉には黙って頷いただけ。それでも、前に座っていた虚空は「ゴールはすぐだ」と振り返らずに言ってくれた。するとうしろから果実がひょいと顔を出す。

「ねぇねぇ、そぉいえばさぁ、茶色と風ネコさまってぇ、なんで仲いいのぉ?」

 それがこの子ネコなりの気遣いだというのは分かったけれど、少し気になる質問だった。

「え、みんなも話すよね」

「ちがうよぉ。だって風ネコさま、話に混ざりはするけどぉオイラたちとは直接しゃべりたがらないしさぁ」

 考えたことがなかった。雪山で会ったときから親しげで、誰に対してもそうだとばかり思っていたんだ。

 うーんどうだろう。

 見上げた空に陰影はなく、白に近い灰色がどこまでも広がっていた。定まらない焦点にもどかしさを覚えた茶色は、きつくまぶたを閉じ、急ぎ足の鼓動を落ち着かせるように深く息を吸い込む。

 と、その時だ。

 突然、マークィーが波うつように激しく躍動し、おしりを高く上げて大きく右へと飛んだ。子ネコは力の限り毛をにぎりしめ、内ももに力を入れてしがみつき、歯を食いしばって着地の衝撃をこらえる。どうにか振り落とされずには済んだけれど、

「灼熱!」

 果実の声色に血の気が引いた。

 振り返ると光の道が飛沫をあげて崩れていて、そこから点々と血の跡が連なっていた。

「かすり傷だ。それよりも、ヤツだ。クソっ、仇で返しおって」

 その言葉にイヤな予感がして目の動きが鈍くなる。灼熱の、だらんと垂れた右腕の向こう側には、見たことのあるタイヤのない車が走っていた。

 左右の窓から身を乗り出しているのは、見るからにやかましいネコヘルメットの2匹。丸目のサングラスの下にギラギラと目を光らせている。

 運転しているのが長毛白猫だということにも驚いた。けれど何よりそのうしろ、外套を風にはためかせて立ち上がり、右手に構えた武器でこちらを狙う成ネコだ。茶色いマイケルは「なにが」とつぶやいた。

「さぁ、出番だよ。ケマール」

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