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心を震わせたのは冒険譚。
強大な竜の支配する世界。誰もが諦めた目をしている中でただ1匹、それを否として立ち上がる主猫公。
投げ出したくなるほどの困難に刃を構え、力強い言葉で味方のネコたちを鼓舞し、ただ1匹となっても諦めず壁を乗り越え進んでいく。そんなネコの強さに憧れた。
成ネコたちにまんまと乗せられて、芸術家ネコ顔負けの審美眼を養ってきた私たちは、次代の宝としてメロウ・ハートの劇団へと迎え入れられることとなる。
厳しい稽古ではあったのだろう。せっかく他の街から訪ねてきても、何者になることなく途中で辞めていったネコを何匹も見てきたのだから。けれど私はありったけの声を出し、少しでも高く、高く、と手を伸ばした。
◆◆◆
それから数年、ささやかながら胸も膨らみ体つきから女子ネコと分かる年になった頃だ。私たちはオーディションを受けるために劇場地下にある小ホールにいた。
恒例行事『べっこう猫の舞台』。
それは若ネコたちのお披露目の場であり、私たちにとって初めて円形野外劇場で演じる大舞台でもある。
目立ちたいという思いはあった。次代の顔として期待されるのは胸が高鳴るし、誰からも認められる形で努力が実を結ぶのであればこれほど嬉しいことはない。ただ、動機がそれだけであれば他の女子ネコたちと同じように、ヒロインネコにむけた稽古をしていただろう。
私が狙っていたのは、勇者ネコ。
情けない声を出して笑われて、泥に塗れて泣きじゃくる場面がほとんどの役柄だ。けれど切った張ったの大立ち回りをして巨竜に立ち向かうシーンがある。それをどうしても演じたかった。
何度も観てきたお話だ。高らかに声をあげるシーンは子ネコの頃にはすでに暗唱できていた。歴代主役ネコたちのマネだってできる。演目をこの冒険譚にすると聞いたときから決めていた。オーディションに男女ネコの区別はないし、挑戦するのは自由だったから。
「“どれだけ数を揃えようと、わが心をくじくものはない!”」
声を飛ばし、照明が切り替わって視界がひらけた途端、タッ、と居並ぶスカルフェイスネコたちに斬りかかる私。清流を踊りながら登るように剣を振るい、圧倒的な技量でもって斬り伏せていく。舞台下からは女子ネコたちが歓声をあげていた。
そこへ、
「はいそこまで。おつかれリーア、よかったよ」
パンパン、と器用に肉球をさけて手を叩く音。演出家ネコが立ち上がって声を張った。
思い出したように息が荒くなり、肩を上下させながら舞台の脇に下がっていくと、
「お、おつかれリーア」
役者と大道具の掛け持ちで幾分たくましくなった赤サビネコのグリューズが、タオルを用意してくれていた。
「ありがとうグリュー。どうだった?」
「凄かったよ! また一段と腕を上げたね!」
キラキラと輝く目で褒められるのだから悪い気はしない。嘘のつけない瞳というのは仲間ネコにとってもありがたいものだった。差し出されたドリンクボトルを受け取って、ほんのり甘いハチミツ入りレモン水を口に含む。と、そこへ今度は、
「まったく、剣さばきが凄ましくてスカルフェイスネコに同情したぞ。お前はどこに向かってるんだ?」
スラッと背の高い黒白ネコのカラバが、脚本を手の甲でトントンと叩きながら舞台下から寄ってきた。彼は役者でありながら脚本家ネコに師事もしていて、この若ネコたちのオーディションでは演技指導も任されていた。
「もう! 2匹して立ち回りのことばっかり。私が聞きたいのは演技よ、演技。カッコよく演じられていたかしら?」
わざとらしくプリプリ怒ってみせると、
「も、もちろんさ! 声だっていつも通りよく響いて舞台袖までビリビリきたし」
グリューズが慌てて手を叩き褒めそやす。カラバの方は、
「ああ、相変わらずのバカでかい声だったよ」
呆れたとばかりに両の掌を上向きにして笑う。ただ、口調こそ冗談ぶっているけども、どこか笑いきれていない中途半端なものだった。
理由はわかっている。
「さあ、次は君の番だ。最高の演技を見せてくれ」
言われて出てきた黒サビネコは、アルド。
アルドは静かに歩み出ると、スポットライトの真下、舞台の中央に立ち、スッと細く息を吸い込んだ。それから、スカルフェイスネコたちの立ち位置が定まるのを見てとるや否や、
「“邪魔を、するなぁぁあ”」
小ホールに巨猫が降ってくる。錯覚で視界が揺れる。低音。威圧感。心臓を握りつぶす痺れ。照明が切り替わると同時、
ダンッ
力強いアルドの一歩が再びネコたちの心を震わせる。
「“巨竜に頭(こうべ)を垂れる弱き魂たちよ、憐れな亡者ネコたちよ。お前たちがどれだけ数を揃えようと我が心を挫くものはないと知れっ”」
その剣のひと振りにはおよそ流れと呼べるものはなく、いっそ拙い。しかし、重たい。大岩を両断せんとばかりに一太刀、もう一太刀と亡者ネコの魂を断っていく。断っていく。断っていく!
見ていればわかる。これが勇者ネコだ。
未熟な剣技をして余りある心の強さ。それが決して折れることのない鋼の剣に宿り、壁を打ち砕く。突き進む力に変えていく。
全然違う。
何もかもを飲み込むその演技に魅入ってしまい、演技が終わったことにさえも気がつかなかった。
脚本家ネコの拍手と共に、性別を問わず誰もが歓声を上げた。まだ第一線に出ていない、若ネコたちだけのオーディションだということを忘れてしまいそうになるその拍手。彼の姿は周りから浮き上がって見えた。
アルドは、脚本家ネコにひとしきり褒められたあとで舞台袖にいる私たちを見つけると、
「どうだ、この拍手!」
と途端に少年ネコのような顔つきになってニコッと笑ってみせた。そこで彼はようやく思い出したように息を吸う。なのに少しも乱れていない。
「凄かった! 身体の芯が震えて止まらないよ!」
嘘をつけない瞳というのは残酷でもある。
「圧巻だったな。だが周りのフォローはしておけよ? 恨まれでもしたらあとが大変だ。特にこういう負けず嫌いのネコなんかにはな」
カラバは冗談まじりに私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。それにムッとした顔をしていると、
「リーア、どうだった、俺の演技」
さっきまでの演技が嘘のよう。どこか心細さを感じさせる声。その声に、私に対する優越や憐れみがないというのはわかっている。なのに私はわざわざ笑みをつくってから答えた。
「もぉ、アルドってばいつも驚かせるんだから。あんな演技今まで一度も見せたことないのに。この日のためにとっておいたんでしょ!」
つとめていつもと変わらない雰囲気で言い終えると、彼の口が開く前に、視線をわずかにそらしてしまった。
そのあと3匹が楽しげに話していたのはもちろん聞こえていたけれど、何の話だったのかまではわからない。脚本家ネコが結果を発表するからとみんなを集める中、
「ちょっと走ってくるわね」
グリューズに言い残し、私は外に飛び出した。
◆◆◆
メロウ・ハートの空は眩しい。
澄んだ青空にポンと置かれたいくつかの雲は、白く大きく輝いていて、そして速い。
いつしかそれを追いかけていた。
けれど雲は先へ先へと流れていく。
待って。私もそこへ行きたいの。その先にある何もない場所へ。
雲はためらうことなく私を置いて、青の向こうへと去っていった――。
「大丈夫?」
雲が私の顔をのぞき込んでそう言った。いえ違う。そんなはずないじゃないただの白ネコよとそこまで考えて、しかしそれまで以上に驚いた。
「か、カルティアさん!?」
輝くほどに真っ白い毛のそのネコは、メロウ・ハート屈指の女優ネコ、『氷の微笑』カルティアだ。ラフな薄手のトレーニングウェアを着ていても見間違えるはずがない。私の憧れを体現した1匹でもあるのだから。
「そうよ、さっき道ですれ違ったじゃない」
「まさか! 私がカルティアさんを見て放っておくわけがないじゃないですか通せんぼしてでもサインもらいますよ!」
「知らないわよそんなこと。それと迷惑だからやめなさい。あなた、川沿いをフラフラになって走ってたの覚えてない?」
そこで今いる場所が分かった。河川敷の草っぱらで空を見上げて寝ていたのだ。ひんやりと心地よい風が吹いている。
「私、転げて?」
カルティアさんは「平気そうね」と言って小さくうなづいた。
「危なっかしいから気になって見ていたら、案の定ゴロンゴロンって転げ落ちて行くじゃない。そういう気分だったのかしらとも思ったけど来て正解だったわ」
口元に添えた品のある細い指のあいだから、クスリと笑いが漏れた。彼女は「ごめんなさい。思い出したら可笑しくなっちゃった」と目を閉じて笑う。
「あなた、リーアね?」
「えっ、私の名前、どうして……もう一回呼んで下さい!」
「決めた。もう呼ばない」
「ひーん」
カルティアさんはよく若ネコたちの練習をこっそり観に来ているらしく、目についた役者ネコの名前は自然と覚えてしまうのだとか。
「こんなになるまで走ってどうしたの、って聞くまでもないわよね。今日はあのオーディション。そしてあなたたちの代にはアルドがいる」
アルドの名前はすでにベテラン役者ネコたちの間にも知れ渡っていたようだ。
「その様子じゃ役を奪われたんでしょう」
私は何を期待していたのだろう、その言葉に落胆し、耳としっぽを垂れて下を向いた。そのまま地面にどろどろと溶けてしまいそうだった。ただ、
「だけどあなたの悩みはそこにはない」
すかさず顔を上げるがカルティアさんは私を見てすらいない。
「わかるわよ。どれだけこの街にいると思っているの。あなたはアルドに役を奪われたことを嘆いているわけじゃない。そんなことはどうでもいいとさえ思っている。ちがう?」
頭を左右に振ると、少し軽くなった気がした。
「その主猫公にたどり着けないと、そう思ってしまったのでしょう。なれると思っていた理想の主猫公を、遠く、空の向こうに持っていかれてしまった」
とても真似できない形で、と。
言葉の通りだった。
アルドの仕草なら真似られる。なんなら今すぐにでもやって見せられる。だけどあの、演技とわかっていても怯んでしまう重く低い声までは真似できない。私の細い体では、会場中を揺らす一歩も踏みしめられない。
あれは私には出来ない演技だ。アルドの演技を理想の勇者ネコと認めてしまった私はもう、そこへはたどり着くことが出来なくなってしまった。
まざまざと見せられ、否応なく心が知った。
「あなたはいつも誰かの真似ばかりしていた。わかるわよ、私もこの街は長いもの。幼い頃から素敵な役者ネコたちを観てきたものね。真似もしたくなる。それは悪いことじゃないわ。でもね、あなたは今、そこを抜ける時期に来ているの」
「抜ける、時期……?」
「そう。あなたにしか演じられない、そんな主猫公を描くときが」
――見て。なんの形に見える?
そう示された雲は、とても一言では言い表せない、複雑な形に見えた。だから、
「あの形は……色濃く熟した果物を手にとって、甘く蕩けそうな香りにワクワクしながら中を開いてみたんだけどそこには、決して見たくなかったたくさんの先客がいて、そのことに心を壊したネコが、そっとその実を置いて後退りしている情けない顔と、離れて見るとやっぱり美味しそうなその実……かしら」
言葉を尽くして答えたのだ。すると、
「それが今のあなたよ、って言おうと思ったのだけど、さすがにそこまで複雑なものは想定していなかったわ……。あなた天才ネコね。まるで違う世界を見ているみたい」
カルティアさんは気持ちを読み取らせない表情で、私の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「あの雲に、なりたい自分を描きなさい。その形になるように頭の中で雲を動かすの。想像するの。そうしているうちに自分の動かし方が見えてくるわ。何を変えて何を変えなればその形になれるのかがね。誰かの真似をすることは高い技術の習得に役立つわ。だけどね、私たちはその先を目指さなければならないの。そこに向かって進んでいるの。本当の、ただ1匹になりたいのなら、自分で作りなさい」
今ある自分と、これから見つける自分とで。
カルティアさんはそれだけ言うとすっくと立ち上がり、
「平気よね、1匹で起き上がれるでしょう。ゆっくりでいいから気をつけて帰りなさい」
しっぽを振って坂を登っていく。私は体の半分をバネみたいに跳ね起こして、
「カルティアさんにはあの雲、何に見えましたか?」
と聞いた。すると彼女は四分の一だけ振り返り、
「未来のリーアよ」
と冷たく、けれど真っすぐ同じ目線で言葉をかけてくれた。
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