(120)9-13:雷雲ミュージアム

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 暗闇に目が慣れてくると、正面の壁にはいくつかの絵が飾られていることに気がついた。

 油絵は大きな額に入っていて、幅の広い額縁には水の流れや風などの自然を表現したものが彫られている。どれも活き活きとしていて華やかだけど、絵そのものはちょっとばかり陰鬱だ。

 伏せ目がちに背中の傷をなめる地核ネコさま。足元の影を見ている大空ネコさま。派閥内の神ネコさま――トラ、ボブキャット、オオヤマネコ、ジャガランディ、そして猫たち。それぞれが1枚の絵となっている。誰も彼もが下を向いていた。

 ふと小さな音がして、照明が静かに灯った。

 照らし出されたのは彫像だ。壁の手前、中央の広いスペースに左を向いて立つライオン像。黒曜石だろうか、筋肉や骨の張り出しといった細かい部分までが作り込まれていて力強い。今にも牙を剥いて動きだしそうだった。いや、微かに動いたよ。すると、

『これが何を表しているか、お前に分かるか』

 と声がした。雷雲ネコさまよりはいくらも若い、オセロットのものだ。

『おい、ここから出せ』

 身動きの取れない彫像がくぐもった声をだす。質問を無視してカタカタと足掻いていたライオン像だけど、しばらくしてどうにもならないと思ったのか動きを止めた。

『ケーブ・ライオーネルの様子だろう。言ったぞ、早くここから出せ』

『ならこれはどうだ』

 すると、壁にかかった絵画がみるみる増えていき視界に収まりきれない数になる。そこには、今も力を注ぎ続けてくれている100万匹の神ネコさまたちや、心配そうに見上げる白の群の姿もある。中には、あわあわの世界だけじゃなく、崩れたクラウン・マッターホルンや、時を止められたまま静かにたたずむあの辛く悲しい“表の世界”の絵もあった。

 雷雲ネコさまはため息をつきつつ、『いまの世界の様子だ』と言った。オセロットとひとつになったからか表のことも分かるらしい。

 すると絵が燃えだした。

 炎は一気に燃えひろがって、壁一面、額もガラスも残さず消し去ってしまう。次いでライオン像のフットライトがカッと照り、焼跡の壁に大きな影を映しだした。影はみるみる形を変えて、やがて行儀よく座るオセロットの姿で落ち着いた。手前のライオン像の5倍はあるだろう。

 影絵のオセロットは、動けない彫像に顔を向けたまま、滑らかな動きで足を上げ、内ももの毛づくろいをしながら話を続けた。

『まったく、バカなことをしたな』

 するとどうだろう、ライオン像の頭の上に宝石のような惑星が浮かび、その周囲を(部屋いっぱいを使って)、神ネコさまたちのガラス像がゆらゆらと漂いはじめた。大小さまざまですごい数、まるで夜空の星だ。目を凝らしてみると、地核ネコさまやさらに大きな神ネコさまもいて、その中のひとつは雷雲ネコさまらしかった。仲よさげに見えるのは見間違いでもないらしい。

『別の道を選んでいればこうなっていた』

『は。バカはどっちだ。星の位階を超越するためには、他の神を飲み込まねばなるまい。少なくとも磁界の神か地核の神、どちらかは削る必要がある。共存などありえ――』

『あたりまえに交渉していれば、地核の神は神世界鏡をすんなり渡していたというのに』

『ありえんな。かつてスラブ・プルーム神やマントル神をその身に取り込んだ神なのだぞ? 地核勢力の覇者ともあろうものが、そうやすやすと力を手放すものか』

『お前が鏡を強奪した“いつかのレース”、覚えているはずだ。あの時、かの神はお前の罪を黙認していただろう』

『だが結局、罰は下されたではないか』

『あわあわの神に告げ口をしたのは他の神だ。ゴールしたときにはもう地核の神にさえ収集がつかないほど広がっていたらしい』

『ふん。だからといってこれはありえん。神々の意識を奪い、考える者を絞らねば星の力をまとめ上げることなど不可能だ。ゆえに、仲良しこよしでいる未来などはない』

 宙を漂っていたガラス細工の神ネコさまたちが透き通り、すうっと光に溶けていく。オセロットはやれやれとため息をついた。

『お前はなぜ力を求めた』

 ライオン像は、無視をきめ込むつもりか『ハ』と言うなり黙り込む。

『このまま彫像でいたいのならばそれでも構わんぞ。お前が言わなければ俺が言うまでだ。お客様もいることだしな』

 チッ、と舌打ちがやけに響いた。

『いまさら聞く事でもあるまい。星を超えた力を得なければ宇宙、まして時空になど到達できん。そのためにあわあわの循環の力さえ取り込んできたのだ。さらなる高みを目指し、そこでさらに力を得るためだ』

『話をずらすな。力のために力を求める? そんな理由があるものか、それは狂っているというのだ。しかしお前はバカだが狂ってはいない』

 雷雲ネコさまは唸りもしない。だけど、突然の笑い声には驚いたらしい。

『気でも触れたか』

『いやいや、この話をしてお前がどう反応するかを考えると堪らなくてな。聞きたいか?』

『どうせ……さっさと話せばいい』

『ならばもう一度聞くぞ。お前が力を集める理由はなんだ。集めた力の使い道だ』

 ほのかに明るくなって、ドーム状の天井が現れた。

『……打ち負かしたい奴がいるからだ』

 そこには、古い壁画みたいな絵でいくつもの戦いの様子が描かれていた。黒いライオンは常に負けている。

『あれは星に君臨していながらも“枝”だった。いくら力をつけ、星の上で勝ったとしても本体はさらに上の次元にいる。ならば強さを求め続けるしかない』

『そう、お前はかの神が枝と知ったとき、強くなりたいと願った』

 だが。

『力への妄執に囚われたのは別の理由だったはずだ。見せてやろう、始まりを思い出させてやる』

 すると、どこからともなくカラカラカラと車輪の回る音が聞こえてきたよ。映写機が影オセロットの頭上あたりに映し出したのは『磁界の神』だという。器の中に灰色の、毛並みのような流れのある神ネコさまで、今目覚めたというふうにこちらを向いて口を開けていた。誰に何をしゃべりかけているのかは分からない。

 なんだか昼ごはんを食べたあとのネコを見ているようなほのぼのした映像だ。だけど、

『おい、館内は火気厳禁だぞ』

 ライオン像が、燃え盛る炎に包まれていた。

『うるさいっ』

 動けない身体でどうしようと言うのか、雷雲ネコさまはガタガタと台座ごと己を揺さぶって炎を消そうとしていたよ。けれど黒いライオンは一気に燃え上がる。ごおお、と低い音が床を震わせた。

 突然、

『なにを見ているっ』

 怒りのこもった声を投げつけられたので、茶色いマイケルの心臓は飛び出しかけた。

『展示物が「見るな」とは恐れ入る。まったくやかましい彫像だな。分かっているのか? 心が透けてしまっているぞ』

『ちがうっ』

『ちがうものか。いつだってお前は意識していただろう。今回ネコに翻弄されたのはなぜだと思う』

『なんの話だ』

『答えろよ』

『お前の存在のせいに決まっているだろう。お前がいらぬ知識を与えて権能まで貸与した。それがなければ――』

『その通り。地力ではお前が勝っていた。当然だ、神なのだからな。だが表の世界ではちがう』

『なにぃ?』

 映写機の絵が切り替わる。映し出されたのはクラウン・マッターホルン。そのてっぺんで巨大なライオンが子ネコをイジメて笑っている様子だった。

『これがなんだ。遊んでいるだけだろう』

 ライオンは、炎をまといながらも乾いた笑いをふっと吐く。

『本当にそうか? あちらでも力を得ることにご執心だったお前のことだ、このネコたちを遊び相手と思っていたはずはない。せっかく無知で、狂った、他の神々に隠れて動いていたのに、邪魔されたらたまらないよなあ。なのにどうしてとっとと排除しない。おかしいだろう。どうとでもできたはずだ。油断があろうとなかろうと、神格を削られていようともな』

 だけどお前はあの時、手を抜いた。影オセロットはそう言い切った。

『なぜか』

『……気まぐれに遊ぶくらいはする』

『この山の頂上に、何があったか覚えているか?』

『だからなんだというのだ。関係ないだろうがっ』

『あの場所で歯向かわれたお前は怒った。あの場所でコケにされたお前はあとに退けなくなった。すべて“あの方”を意識していたからではないか。見栄ばかり張って』

『ちがうっ!』

 ズドン、と彫像の台座にひびが入った。そしてまた映像が磁界ネコさまへと戻る。

『お前、周りのことはよく見えるのに自分のこととなると盲目だな。なぜこれを見て燃えるほど熱くなったかを考えてみろ』

『だまれっ!』

『お前はこのころほとんどあの方に会えていなかった。しつこく勝負を仕掛けていたし、そのくせ弱いしで拒否されるのも仕方ない。そう自分に言い聞かせて納得していた』

 なのに。

『磁界の神は話しかけられた。しかもあの方みずから寝床まで出向いてだ。同じ“電磁の神”から分かたれた者なのにと、歯がゆくなったのだよなぁ』

 再び炎が猛り、その高温からか黒曜石の身体に亀裂がはしった。

『認めろよ。お前の内にあったのは、凶暴な野心でも、無限の向上心でもない』

 黒いひび割れの下から別の色がのぞき出す。まだらに混じり合った黒と白とが火傷のようで痛々しい。

『お前はあの方に――』

『――――――――――――――!!』

 ライオン像は、その先を言わせるものかと吠えまくり、首から上を無理矢理に動かして火のついた黒曜石の欠片をあたりに振りまいた。炎によってさらに大きくなった影オセロットは口を裂き、もがく雷雲ネコさまを悠々と見下ろしながらトドメとばかりによく通る声でこう言った。

『お前はあの方に――』

『――――――――――――――!!』

『――構って欲しかったのだ』

 ライオン像は黒煙とともに重低音を吐きまくる。火力増した炎に顔を歪ませながら何かを取り戻そうと必死に声をあげていた。そこにオセロットの『くっふははははは』という笑い声が加わり、不協和音の合唱は、炎の中で長く長く繰り返された。

 咆哮というよりはむしろ叫泣(さけびなき)。お腹と喉とが裂けてしまいそうなその声に、芯を同調させた子ネコたちは思わず悲鳴を漏らしそうになったよ。生傷をヤスリがけされるような痛みだった。笑うことなんてとても出来はしない。

 影絵のオセロットも、心から楽しんでいる、というわけではないだろう。高らかな笑い声の奥では子ネコたちと同じものを――いや、きっとそれどころでは。

 しばらくして笑い声はやんだ。そして叫びの音量が強制的に下げられた。影は、

『正しく求めていれば、手に入っていたのだ』

 と、落ち着き払った声でつぶやいた。

『お前は努力した。仲間を作り、励まし、弱い者たちにも声をかけてきた。その努力の結果さえ正しく使えていれば事態は好転していたはずなのだ!』

 ライオンの周りに、さっき消えたガラス細工がひとつふたつと増えていく。

『同期として勢力拡大に尽力した雲の神はもとより、表の世界でさえ力を貸してくれた神もいる。罰を受けたあとのお前にだ。大気圧の神と嵐の神。どちらも肝の座った頼もしい仲間だ。

 部下にも恵まれた。

 能力はそこそこでも真面目な霧の神、素行は悪いが仲間思いの礫の神。罰を受けてでも止めようとしてくれた蒸気も小川も林も、反対の立場をとって議論を活気づけてくれていた流れの神たちでさえ同じ方向を見ていてくれた。

 なにより、信頼と助力を惜しまない大空の神は得難い存在だと分かっていたはず。これだけの信頼を築きあげたのだ、お前は』

 ガラス細工は10、20と増えつづけ、数えきれなくなった頃に小さなガラスのライオンは現れた。それは彫像の頭上にふよふよと浮かんで周りの神たちを見回している。

『これはお前が築き上げてきたものだ。神々を繋ぎ、孤独な細神たちを助け、救いあげて前を向かせてきた。その裏側に別の目論見があろうと、それをしてきたお前だからこそ築きあげられたものでもある。

 知っているか? 芯というのは響き合い、向きを同じにすることで何倍もの力を与えてくれるのだ。もしお前が細神たちを使い潰さず真正面から協力を申し出ていれば、星の内包量を超えた力を発揮することもできただろう。その力を使い、さらにこの勢力を拡大していけば、誰を害することなく上の次元へと進出できたはずなのだ。

 そしてその中でもお前は確実に重要なポジションに就いていたはず』

 ガラス細工のライオンはぐんぐんと大きくなっていき、漂うガラス細工の数もさらに増えていった。

 雷雲ネコさまは炎に包まれたまま『やめろやめろ』と未だに吠えている。

『そうすればおのずと、あの方との接点を見いだせたのだ。力を認められていただろう。求めたものはすべて手に入っていた』

 ――この美しい世界とともに。

 暗かった館内が、白一色で染め上げられる。

 輝かしい、“あったかもしれない世界”の展覧会が始まった。

 壁一面に、大自然の芯を捉えた美しい景色が額装されていく。

 銀河を模した柱がいくつも生えてきて、天井には星の瞬く夜空が描かれ、オーロラが映し出された。宇宙の星々が眺めているのは、ライオン像の周りを漂うガラス細工の神ネコさまたちで、踊るようにゆったりと揺蕩っている。めくれた壁からは別の宇宙の猫たちがこちらをのぞいているし、世界の大時計のレリーフまでがあちこちに浮かんでいたよ。

 色々な神ネコさまたちが集まってくる様子はそれはそれは賑やかで、まるでお祭りみたいに子ネコたちをワクワクさせた。

 雷雲ネコさまは、いつの間にか炎を消していた。スイッチが切れたように声を出すのをやめて、煤けた顔を持ち上げ館内を眺めている。きっと、この場に表現された世界の向こう側、“あったかもしれない世界”の物語を頭の中に描いていたんだろう。眩しそうに見つめていたよ。

『なのに』

 ガラス細工の動きが止まり――

『お前はそのすべてを無為にした』

 ――床に叩きつけられて全てが壊れてしまう。

 騒然とした。破片が波しぶきのように散らばると、壁の絵画は燃え、天井は崩れて柱は折れた。壁まで溶けている。ライオン像は壊れていく品々を見ながら、『まて、まて』とでも言うように子ネコみたいなか細い声を喉の奥から絞り出していた。台座に固められた身体が震えている。

『お前にはガラクタがお似合いだ』

 やがて騒ぎが落ち着くと、ボロボロの館内を、寿命間近のオレンジ灯が昏くぼんやりと浮かび上がらせた。吹き上げられた粉塵が舞い、ライオン像に遠慮なく降り積もる。コホ、と咳をしていた。ジーっという漏電の音がひどく悲しかった。

『さて、そろそろ時間切れだな。企みは暴かれ、強行も阻止された。信頼を失い、築いたものはすべて壊れた。そしてじきにあの方もいらっしゃる。暴れてみるか? 仲間だった者たちに吊るし上げられ、差し出されるのもいいかもしれない。それ以上のことをしてきたのだからな』

 すっと照明が落ちていく。わずかばかりの灯りの中で、壁に映ったオセロットの影が、

『おや、閉館らしい』

 と、丁寧に頭を下げた。

 寂しくうつむくライオンの石膏像が、小さく、遠ざかっていく。

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