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戦いは終わり、集まっていた神たちももういない。
マルティンは、ケーブ・ライオーネルの荒んだ景色の一点に、静かにたたずむ場ちがいな青空を見つけて、息を整えながら歩み寄った。
どう声をかけたものか。ギリギリまで考えて出した答えは、戯(おど)けるでもなく、謝るでもなく、ただの呼びかけだった。
「大空の神」
我ながら臆病きわまりない。ただ、そんな胸の内とは裏腹に、声はすっきりとよく通っている。これなら舌が回りそうだと続きを口にしかけたところ、
『やあマルティン。君にも悪いことをしたね。ひどい事をされたんでしょう?』
先に謝られてしまい、次の言葉が浮かばなくなってしまった。
言葉をつまらせた理由は他にもあった。見た目にはすっと背筋を伸ばして見える神さまだけれど、声は明らかに下を向いている。あの、大空の名にふさわしい、少年ネコのように澄んだ声とは似ても似つかない、いや、むしろ似ているからこそ余計に痛ましく思えてしまうのかもしれない。
マルティンは描いていたシナリオを頭の中で破り捨て、薄笑いを消した。
「あなたと、話がしたくて参りました」
大空は、座った姿勢のまま器用に手足を動かしその場で回って向き直る。しかしまっすぐに見合っているはずなのに視線は合わなかった。その姿を見てギクリとした。
初めは与(くみ)しやすい相手と思って話しを持ちかけたのだ。予想通りこの世界についていろいろな事を聞くことができ、その後も行動を共にしたのは少なからず力を期待してのことだった。打算はあった。言い訳はない。
ただ、冗談を言えば子ネコのように無邪気に笑い、なんでも真似したがって、だけど笑ってしまうほど不器用なこの神さまを見ていると……嘘がないと分かるからだろう、わずかのうちに居心地の良さを感じるようになっていた。彼と似ていたのだ。我が親友ネコ、リットンと。
その面影を、いつしか重ねてしまっていた。だから逃げ出したあとも尾をひっぱられるようにしてここまで来たのだ。この神に謝罪すれば、なにか変わるのではないかと思った。あの瞬間、リットンに抱いた憎悪を、その後悔を、打ち消すことができるかもしれない、などと。
どこまでも自分勝手な罪滅ぼし。自己憐憫もいいところ。分かっている。最低だ。
それでも少しくらいはこの神の役にも立つのではないかと、そう意気込んで来た。
しかし怯んでしまった。
今はっきり分かったのだ。目の前にいるこの神は、親友ネコではなかったと。
大空の神は、裏切られることを恐れ、誰も、何も、信じることが出来なくなっている。いや、失ったものは他への信頼ではなく己への信頼だ。裏切ったものを許せないのではなく、それを見抜けなかった己を責めている。もしも誰かに責任を求めたならば前を向けていたかもしれない。自分は悪くないのだと目を背けていたのなら。しかし大空の神は己を責めて、視界のきかない黒雲の中でただただうなだれている。
ああ、これは。似ていたのはリットンではないのだな。そこで嘆いているのは、他でもない、あの時の――。
――寂しがりの大空に手を伸ばしてあげてくれ。
虚空のマイケルの言葉が催促に聞こえてしまう。マルティンは自嘲した。
……手を伸ばしたいのは山々なのだけどね。
子ネコにまですがった自分に何ができる。己にかける言葉などいまだに見つけられないでいるというのに。
マルティンは二の句を継げずただただ大空の神を見つめていた。神は焦れるでも先を促すでもなくじっとしている。辛抱強く次の言葉を待ってくれているわけではないだろう。黒雲に揉まれる中で意識の焦点すら定まらなくなってきたのかもしれない。
とはいえ、マルティンはこうも思うのだ。
なぜこの神が嘆かねばならないのだろう、と。
こんなにも晴れ渡っているではないか。黒雲などひとつもなく澄んだ空なのだ、誰が見ても偽りがないと感じられる。これが闇にとらわれるべき存在か?
――その空に曇りがなければ特別だ。
そう、紛れもなく特別なんだ。
その特別な空を今、私は見ている。誰もいないこの場所で、ありもしない黒雲に戸惑う神が目の前にいる。だとしたらどうするべきか。あと少しで何かが見えてきそうな気がした。
たしかに私は自分を信じられず、己にかける言葉を持っていない。しかしだ、これだけ明け透けな空を見せられてまで疑うほどか? 澄んだ空を澄んでいると言えるくらいには、力をもらったはずだ。前を見ている。
マルティンは神の中にある、吸い込まれてしまいそうな空を見つめた。
そこに虚空のマイケルの言葉が響いてくる。
――空は進むべき道を示してくれるよ。
しかし頭に浮かんだのは逆だった。
……私が、示してやれないだろうか。
つぶやきにもならない頭の中のその声に、マルティンはカッと瞠目した。目の奥にあった何かがブチッとちぎれる音がした。そして空の向こうに輝く一本の道を見たんだ。
そうだ、示せばいい。
神が自身を信じられないと言うなら己が信じられる存在になればいいではないか。どうせ誠実であることくらいしかできないのだ、うってつけだ、私には。心などいくらのぞかれても構わない。何もかもをこの舌に乗せて言葉にしてしまえばいい。そうすれば黒雲など現れようもないのだ。
示そう。大空さえも飛び込みたくなる澄んだ空を。
子ネコに叩かれた肩がひどく痛んで、口が開いた。
「私が用意しますよ」
こわばった顔と一緒に頭の中ががほぐれていき、透き通ってゆく。
「あなたが安心して暮らせる場所を作ります」
『いったい何の話……』
「そうだ、嘘のつけない国にしてやりましょう」
瞬間、きょとんと呆けていた大空の神と思考で繋がったのを感じた。マルティンの瞳が輝きはじめる。
『うそのつけない国』
「あの賢い子ネコたちが言っていたのです。そういう国があるのだと。私も嘘には散々痛い目に合わせられましたからね、もしも潔白を証明できるシステムがあれば、そもそもこんな傷を負うこともなかったでしょう。そう思いませんか?」
右手で脇腹を大きく撫でながら問うと、大空の神は、
『そう、かもしれない』
と、たどたどしくも頷いた。
「ただ困ったことに、全ての嘘が分かってしまうと冗談が言えなくなるそうなのです。それはいささかつまらないかもしれないのですが……」
2匹のあいだに黒雲はない。
「今のあなた――いえ、私たちにはそれくらいがいいのですよ。きっと」
かっちりと視線が合った瞬間、マルティンは瞳だけでなく身体までが輝きはじめた。毛先から根本、その奥の肉や骨までが透けるように光っていったが、恐ろしさは感じなかった。当たり前というか、あるべき姿というか。
身体は縮んでいき、やがて大空と目の高さを同じにした。しかし視野は広がり、遥か遠くまでが見渡せる。
マルティンは右前足を持ち上げて、今の己を確かめるように肉球をペロリと舐めた。
『迎えに来てください』
みゃあ、と鳴いて小首をかしげてみせた。
『迎えに? あっちで? 僕にネコが見分けられるかな』
『あなたは神ですよ』
んー、と悩みだす。マルティンは困った顔で笑った。
『ほら、誰か覚えているネコはいませんか。それと私を比べてみれば……』
『ああ、そういえばマルティンとあのネコちゃん、似てるよね』
『あのネコ……ああ。なるほど、どこが似ているのでしょうね』
『色?』
『これは見つけてもらえるか心配だ』
2匹はこみ上げてくるおかしさのまま笑い合い、それから互いの澄んだ青空に向かって頷いた。
『それでは神さま』
『それではマルティン』
どうぞお気をつけて、と。
優雅に振る舞おうとする大空の神を見て、やっぱり似合いませんね、とは口にしなかった。それは次に会った時にでも。
マルティンは器の中に、約束と確信を抱いて、光の向こうへと消えていった。
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