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銀色の森を駆ける1匹のネコがいた。
木々の激流には目もくれず、正面に聳(そび)える巨木を目指していた。しかし、根本へたどり着くにはあとどれだけ地を掻けばいいのだろう。いっこうに近づいてくる気配がないのだ。
荒い息を吐きながらマルティンは、サビネコ兄弟の「送ってやろうか」という申し出を断ったことを少なからず後悔していた。
いや。
後悔というのならその選択もまた後悔へと続いているのかもしれない。これまでがそうであったように。
そうだ。私はあのときからずっと――
♣♣♣
外務省特別対策本部は、雷雲に囚われていた。
そこここのモニターから溢れる爆発音。オペレーターネコたちの怒号が飛び交い、中央のホログラムモニターには黒煙がいくつも映しだされている。つんざく悲鳴は街頭防犯システムから拾ったものか。
次々と報告される被害の大半はリーベ・レガリア国内の重要施設を狙ったものだった。しかし、少なくない数の民間施設も爆破されている。当然ながら一般市民ネコにも多大な犠牲が出ていることが伺えた。
「事務次官ネコ! 即時、各大臣ネコに『マザーネコAI』による防衛展開を!」
情報局のネコが肩を怒らせ、しかし走らずにフォス事務次官に寄ってくる。その視線はすぐ側に座っていたマルティンをわざと避けていて、蔑みよりも苦いものを感じさせた。他のネコたちも背中でフォスの決断を待っている。
フォス事務次官ネコは眉根を寄せて重苦しくうなづき、
「マルティン、我々はどうするべきと思うね」
と、軽く手を振って手元にホログラムネコデバイスを呼びだした。空気中に浮かび上がった電子フレームは、いつか見た街の信号と同じ青色の光を放っている。
「この時代の平和は、君たち2匹で作り上げてきたと、そう持ち上げられてきたのだ。判断を君に預けるのもいいだろう」
風を扇ぐように手をふると、ホログラムネコデバイスが滑らかな動きでマルティンの目の前に流れてきて止まった。そこには外務省としての提言がまとめられており、あとは肉球でタッチして一斉送信するだけで政府各省各方面へと伝わるようになっている。
もちろんそれだけですべてが決まるわけではなく、実際にはさらに上層での決断が必要となるのだが、たかだか外交官ネコには重すぎる一撫でだ。
「事務次官ネコっ!」
職務放棄とも取れるその行動に情報局のネコが詰め寄ってくる。しかしフォスの大きな手が制止した。ぐっと歯を食いしばるネコはマルティンに、
「あなたは今すぐ顔を上げてあれを見るべきだ!」
声を叩きつけると一歩下がった。
部屋の中央、ホログラムモニターがリーベ・レガリアの立体地図を消し、いくつかの街頭カメラの様子を映し出した。声は消されており、先程よりも騒ぎは収まっているように思える。
だからこそか。
ひと目見て気づいた。燃えているのは地下鉄の出入口。電子掲示板が崩れ落ち、繋がれていたコードは火花を散らしている。傍らの街路樹にも炎が移ったのだろう、倒れて道を塞いでいた。
リットン。
鼓動が高鳴り、肘から下が震えだす。
だが、切り替わった映像を前にその震えはピタリと止まった。
そこは、暇を見つけては足を運んだいつものカフェだ。
視界が揺れる。
心の奥で、ひっきりなしにリットンの名を呼ぶ自分がいた。
猛るオレンジ色の向こうに、見覚えのある背格好の黒い影をみつけて目をみはる。それは、いつもマルティンの誘いを躱(かわ)していた、あの女性店員ネコ、のように見えた。
――気づくのが遅れた。
頭の中に自身の声が冷たく響く。
炎の隙間からのぞいた彼女の顔はひどく煤けていて毛は黒く濡れている。いつも楽しみにしていた明るい笑顔などどこにもない。
ふと、彼女が動いていることに気づいてハッとした。客ネコと思しき影を、ずるずると引きずりながら、外へと運んでいるところだったのだ。
生きている、よかった。マルティンは鼻で大きく息を吸う。そして、店の前は大通りだ、外に出さえすればひとまず助かる。そうだ一歩一歩確実に、つまづかないようにと心の中で騒ぎ立てていた。そこで店が火を吹いた。入り口脇のガラスが弾け飛び、鉄骨のフレームがひしゃげるところまでは見えたのだが、すぐに画面が揺れ、レンズにヒビが入り、そして映像は途切れてしまった。
マルティンは手を伸ばしかけたまま固まっていた。
――遅れて気づいた?
ちがうだろう。手遅れにしてしまったのだ。
そのとき、己の中で何かが強烈に弾けたのを感じた。
唾を飲む音が聞こえる。顔を上げてみると、こちらを見ていたネコたちが引き攣った顔をしていた。いったい今、己はどんな顔をしているというのか。
マルティンは青い電子フレームにそっと手を伸ばす。手のひらは、あるはずのないスイッチの抵抗を感じた。
――この、裏切り者め。
室内には変わらず雷鳴が轟いていた。
♣♣♣
マザーネコAIによる報復行動は、それこそ『計り知れない』ネコたちの意思が宿っているのではないかと思うほど徹底したものだった。相手に何もさせず、しかも平和的な解決をしたという意味でこれ以上ない成果をあげたのである。
行動直後、まずメトロ・ガルダボルド内の情報を一瞬でかき集めたマザーネコAIは、次にアクセスレベル1のネコ軍事施設からミサイル群を放った。
それはリーベ・レガリアに対抗可能な戦力を、尽く削る。
メトロ・ガルダボルドの主だった軍事施設はもちろんのこと、極秘裏に開発が進められていたネコAIや軍事利用可能な工業製品の製造場所、果ては変電施設がターゲットとされ、その上空でミサイルが爆破。放たれた衝撃電流により施設は機能を失った。
その回復を待たず小型無猫機:チャトラーが全土へと進出し、音声機能でもって民ネコたちに状況説明をした後、降伏を勧告する。戸惑いは少なくない。しかしリーベ・レガリアの技術力を知っている民ネコたちは、それが軍事転用された場合の驚異も正しく認識し、両手を上げて勧告を受け入れたのだった。
こうしてメトロ・ガルダボルドは開戦から1時間もかからずに、かつての同盟国となってしまったのである。
♣♣♣
「どうせ上で手違いが起きたのだろう。被害が拡大する前に事が収まったのだから、しばらくすればまた昔のように往来を交差できるようになるはずだ」
両国の民ネコたちの大多数はそう考えていた。確かにリーベ・レガリア市街地の被害は多く、死者ネコも少なくなかったが、それでも虐殺を望むほど、猫心はか細く廃れていない。時間をかけて亀裂を埋めていこうという覚悟があったのだ。
次の平和に向けて。
だが、晴天の霹靂もいいところ。
現在交渉中のメトロ・ガルダボルドと自国を除いた3国、北のエル・ローリエ、西のゴート・ロマーリア、南のリラ・イグジスタが過剰防衛を理由に『同盟制裁』を布告してきた。
要求はマザーネコAIの引き渡し。
「我が国の工業製品に頼り切っている連中にしてみれば、今回のようなマザーネコAIの情報収集方法と分析力は脅威以外の何物でもないからな。事態を傍観してはいられなかったのだろう。もしくははじめから……」
リーベ・レガリア議会はマザーネコAIの引き渡しを決め、今後はメトロ・ガルダボルドを含めた5カ国での共同管理とすることになった。
愚かさを感じたものは少なくなかったに違いない。しかし、そこに見え隠れする『また元のように』という願いを誰が否定できようか。
なかば無条件降伏の形で決着したかに思えたこの『同盟制裁』は、まもなく次の争いの呼び水となる。はじめから軍事利用するつもりの国ばかりだったのだ、当然といえば当然か。
世界は元々嘘で溢れていた。
そんな他国に対し、リーベ・レガリア本国は新たなネコAIを稼働させ、争いはいよいよ次世代ネコ戦争の形をとり始める。ネコAI同士による読み合いだ。
かつてリットンはこう言った。
『見てくれよマルティン、この街の流れを。ネコも車も滞りなく目的地を目指している。あの流れに乗りさえすれば、抱いた大望さえすんなりと叶ってしまいそうじゃないか』
『大望への道先案内』としてのネコAIは、もう動かない。
残されたのはネコを破滅と送り込む、錆びついたベルトコンベアだけだった。
マルティンはその後、リーベ・レガリアに仕掛けられた攻撃が他国の工作であったことを知った。リットンがそこにどう関わったのかは分からずじまいだ。憶測ばかりが耳を通り抜け、確かなことといえば、あの秘匿通信のあと、彼が亡き者にされたという事実だけ。
その後、国から戦火拡大の責任を取らされることにもなるのだが、その頃のマルティンはもう何もかもどうでもいいという心境で、汚名という汚名を被せられても、
「ええ、それで間違いありません」
と全てを受け入れるようになっていた。
横暴に振る舞われてしまえば、国家になど抗いようもない。
嘘ばかりの世界だ。嘆きもする。
しかし、マルティンの胸のうちにあったのはただひとつの後悔だ。
頭を冷やせば答えなど見えているだろうに。どうしてあの一瞬、私は。
それがどんな罵声よりもマルティンの心を蝕んだ――。
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