スノウ・ハットに住む子ネコたちなら誰だって知っている絵本がある。
『くらぁい くらぁい おおきな もり』。
その本に出てくるのが、森を覆いつくすほどの怪鳥、ホロウ・フクロウだ。
それは子ネコにとって恐怖の象徴みたいな存在で、名前を聞いただけで絵本の記憶がよみがえり、震えあがるほどさ。
実はこの絵本、メロウ・ハートの廃都市で聞いたところによると他の街や国でも読み継がれているみたい。多少言い回しが変わっていたり絵が違っていたりはするんだけど、4匹の子ネコが森の中に消えていくという終わり方は同じらしく、話を聞いたネコたちは口をそろえて「あれは怖かったなぁ」と言っていた。
空に行ってからも、クラウン・マッターホルン登頂教練のために3週間泊まり込んだ宿泊所に置いてあったよ。なんでこんなところに絵本があるのかって尋ねたら、『この山に挑むのなら、この絵本を読んでもおねしょをしなくなってから』っていう登山家同士のちょっとした冗談だって教えてもらった。
そんな、成ネコになってからも心に残り続ける恐怖の存在が今、4匹のマイケルたちの前に立ちはだかっていた。
おっきな建物。それが第一印象。
ゾウやキリンを近くで見たとしても、さすがに建物だとは思わない。
それはそうだろう、それらは大きいと言ってもせいぜい高さ3~5メートル。建物で言うなら2階分くらいでしかないし、さらに幅や奥行きを考えれば、建物とはずいぶん印象が変わってくるからね。
だけどホロウ・フクロウからは、建物のような”不動”の印象を受けた。10階建くらいの大きさはあるし、なにより生々しい息遣いがある分、身に受ける圧力はこちらの方が上だ。
茶色いマイケルは音を立てないよう、そっと周りの子ネコの様子を伺った。すると案の定というか、果実のマイケルと虚空のマイケルは口を大きく開けて、木彫りのネコみたいにギシギシと固まっていた。初めて見るんだから仕方ないね。
とはいえ、一度対峙したことのある、茶色と灼熱の2匹のマイケルでも、いきなりすぎてどうしていいのか分からず、チラチラとお互いを見るばかりだったんだ。
怯えて押し黙ったままの4匹は、
ホーウ、ホーウ
「その怖がりよう、君たちもあの絵本を見て育ったんだろうね。やっぱりすごい影響力だなぁ」
ぎょっとするくらい親し気な声を掛けられ、その場にぺたんと尻もちをついてしまった。
「おやおや」
ホロウ・フクロウは巨躯を折り曲げ、ぐわんと顔を近づける。暗闇に穴を開けたような巨大な2つの目が一気に迫ってきて、吸い込まれるかと思ったよ。ミミズになった気分だ。
「毎度のことだけど、あの絵本はちょっとばかり刺激が強すぎるみたいだね。どうか死んでしまわないでおくれよ?」
ホ、ホ、ホ、ホーウ、ホーウ
フクロウらしい嗤うような鳴き声に、震えあがる果実の悲鳴が混じる。
「冗談冗談。大森林と違って、ここでの役割は怖がらせることじゃないんだ」
その単語に、茶色いマイケルは「え!?」と思わず声を出していた。
「大森林って、スノウ・ハットの!?」
するとホロウ・フクロウは、
「そうそう。ワシらホロウ・フクロウはみんなあの森に住まわせてもらっていてね、雪と氷の女神様の言いつけに従い、こうして『あわあわの世界の入り口』の番鳥をしているんだよ。まぁキミたちは今回、空にある『世界の大時計』から来たみたいだけども」
と、近所の子ネコに世間話でもしてあげるおじいさんネコみたいな調子で、とんでもない事実を口にする。それに反応したのは灼熱のマイケルだ。
「その口ぶりからすると、あの大森林からもここへと繋がっているというように聞こえるが」
それを聞いてホロウ・フクロウはひと際大きく、
ホ、ホ、ホーウ、ホーウ
と笑った。
「その通り。そうか、キミはたしかあの森に入って行こうとしたことがあったんだったね。妻と息子から聞いている。なんでも”ものすごい声の大きなネコ”だとか。いやぁ、あの話をするときの息子はとっても元気が良くって、単身赴任している父親としてはそんな姿を……っと、入り口の話をしていたんだった。話を戻すと、世界にはいくつかここへと繋がる場所があって、大森林もその一つというわけ。というか最古の入り口だね」
「なんと、あの森が……」
驚いたのは茶色いマイケルもだよ。
「ボク、ずっと住んでたのにちっとも気づかなかった……」
「足元なんて見なくても歩けてしまうものだからね。それに、誰だって前を見ることで精いっぱいだ。特に子供は。ホッホ」
だけどいたずらに招いていい場所じゃないんだと、ホロウ・フクロウおじさんは言った。
「ここから先は特別なんだ。特別な者たちしか入ることは許されない。だから入り口のある大森林の手前でワシらホロウ・フクロウが番をしているというわけさ」
「なるほど、つまり怖がらせて追い返そうと」
そこで茶色いマイケルはハッとあることに気が付く。
「もしかして、そのための絵本なのかな!?」
するとホロウ・フクロウおじさんは地響きしそうなくらいホウホウ笑って、
「そうだともそうだとも、よく気付いたものだなぁ、大先生!」
と大げさに褒めたてた。あんまり褒められるものだから恥ずかしくって、「や、やめてよぉ」とすっかり怖さも忘れて手も頭もしっぽもブンブン振ったよ。
「まぁそういうわけでね、ワシは君たちがこの先へ進んでいいものかどうかを見極める必要があるんだ」
声が低くなり、ずん、と空気の震え方が変わった。茶色いマイケルの背筋が鉄骨を通したようにピンと正される。
「とはいえね、事情は知っているつもりだ。あちらの世界での出来事はこちらから見ていたからね。クラウン・マッターホルン頂上での決戦を経て、神たちの争いに巻き込まれ、あげくは風の神の思惑に利用され……まだ子ネコの君たちにはとてもつらい事だっただろう。それからオーロラの神の導きにより『世界の大時計』の中へと入って行き、時の女神と会った。うん、この先へ進む資格は十分にある」
「……よかったぁ。進めないかと思っちゃった」
「ホ、ホ、ホ。そうだ、時の女神さまから預かったものがあるだろう?」
茶色いマイケルの頭に、金色のネコの像がパッと浮かんだ。2匹の神ネコさまがお互いのしっぽを追いかけて∞を描いているあの像――『ティベール・インゴット』だ。
茶色いマイケルは腰に下げた荷物袋に手を入れて像を取り出し、「これのことかな?」と両手で大切に包んでホロウ・フクロウおじさんに見えるように掲げたよ。
「ホウ、どれどれこれは確かに……」
巨大な足の爪が持ち上がり、茶色いマイケルの手の中から慎重にその像を持ち上げる、その直前、
「はい、終わり」
ホロウ・フクロウおじさんは冷たくそう言った。
「今、この時をもって世界が終わってしまった。茶色いマイケル、キミのせいでね」
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