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ぐぇぽっ
涙を流しながら吐しゃ物をまき散らしたのは果実のマイケルだ。
道の端にうずくまり、虚空のマイケルに背中をさすってもらっている。
茶色いマイケルに飛びかかってきた子ネコはもういない。灼熱のマイケルが力いっぱい抑えても暴れ回っていたっていうのに、果実のマイケルが触れたら2秒も経たずに静かになって、そして、
「まぁ初めてにしちゃ上出来さ。きっちり泡にできだからね」
そう、泡になって消えてしまった。
ついさっきの出来事だ。
果実のマイケルに触れられた子ネコは、『中身のない目』を閉じ、『開いたお腹』を気にすることなく両手をだらりと下げて棒立ちになり、少しアゴを上げたと思ったら、わっとぶくぶくの泡になって昇っていった。まるでお母さんネコに撫でられているような、幸せそうな顔をしていたから悲しい気持ちにはならなかったけれど、茶色いマイケルは灼熱のマイケルに引き上げてもらいながら、
「あの子、どうなったの?」
と尋ねずにはいられなかったよ。答えたのはキャティだ。
「泡になって消えた。見たままさ。アンタもここに来るまでに見てきただろう。このレースに参加したネコたちが泡になって消えていくのをね」
キャティは道に倒れて気絶しているネコたちを足場にして(ひどい)、周囲の様子を楽しそうに見回していた。
「でも、『黒い靄』は出てこなかったよ?」
茶色いマイケルはこれまでに何匹も、泡になって消えた動物やネコを見てきた。その時には決まって黒い靄も一緒にでていたから、さっきの子ネコと何か違うのかなと思って尋ねてみたんだ。だけど、
「ちゃんと観察出来てるじゃないか。そう、泡にはなったけど、黒い靄は出てこなかった。それが事実さ」
期待した答えは返って来なかったよ。だから少し考えて質問を変えた。
「あの子もレースに参加していたの?」
「いいや違うね。さっき来るときに教えただろう、もう忘れたのかい」
「ふむ、あの子ネコが”ネコと見れば見境なく襲ってくる化け物ども”、『ネコ・グロテスク』というやつか」
「そうさ。だけど正確に言うならその内の一種類、あれは」
灼熱のマイケルが答え、キャティが説明を続けようとした。そこへ茶色いマイケルがつい「あの子はなんであんな……」とつぶやいてしまう。それはとても小さな声だったから、無視されると思っていたんだけど、
「茶色の坊や、アンタはアレが何をしてるように見えたんだい?」
キャティは話を切って、ノコギリを引くようなガラガラ声で問いかけてきた。
「何って。わかんないよ、だってあんな……」
あの、信じられない容貌を思い起こす。キャティはその答えがお気に召さなかったようだ。
「わからない? 分かりたくないの間違いじゃあないのかい? アレは言葉を使ってアンタに何かを言っていただろう」
”かってくれるぅ?”
”ねぇ、買って? 買ってくれる、よね……?”
”ねぇかってかってかってかってぇ!”
あの子ネコの声は、まだしっかりと耳に残っていた。
洗面器の中にありえないものを入れて、必死に懇願していたあの小さな身体。思い出すだけで身震いしてしまう。だけど訴えていることはたった一つ。それは分かっていた。
「……買って、ほしいって」
「ほうら、聞いていたんじゃないか。アレはアンタに買って欲しいと言った。そして洗面器の中は”それ”でいっぱいだった。つまり、買って欲しかったんだよ、”それ”をね。それが事実だろう他に何があるんだい」
「でもどうして」
反射的に出た言葉。対するキャティの声は冷たい。
「どうしてもこうしてもあるかい。買ってもらう必要があったってことだよ。買うヤツがいて、アレが売っていた。そんでまぁ」
買わせるヤツがいたってことだ。
子ネコの耳に飛びこんできたその言葉は、今までに聞いたどんな言葉よりも醜悪で、邪悪なものに聞こえたよ。そんなのネコの使う言葉じゃないってくらいにさ。だから頭をくらくらさせながらも「そんなバカな……」と否定しなければ立っていられなかったんだ。
だってそんな……。
「バカなことだと思うかい? まぁ価値観はネコそれぞれさ。ただしそれが事実としてあったってことは付け加えておくよ。アレは『ナカミウリ』。名前のまんま、自分の身体の中身を売らされてるっていう、そういうネコ・グロテスクさ」
自分の身体の中身を……?
売らされている……?
”買ってくれないとおこられるのぉ! またいたいのいっぱいいたいのいっぱいいっぱいいっぱいぃッ!”
頭の中で響く子ネコの喚き声。吐き気を催すには十分だったけれど、寸でのところで堪えた。
「……ネコ・グロテスクって、何なの?」
それを聞いたキャティの表情は「へぇ」だった。試すようにアゴを上げて見下ろしている。
「言っただろう、”狂気の沙汰”さ。ネコと見れば見境なく襲ってくる化け物。そして、”狂気”の生み出した化け物の名前」
それはさっきも聞いた。だけど、それじゃあ具体的なものが何も見えてこない。だから「わかんないよ」とつぶやいたんだけど、
「じゃあアンタには一生わからないって事だね」
取り付く島もない。
「でもっ! さっきは教えてくれるって」
「教えただろうさ。解説はしてあげた。『アレが何か』までは教えてあげた」
心が固くなっていくのを感じたよ。元々襲ってきたネコだし、そうだよねと、しゅんとしかけた。そこへ「だけど」と話が続く。
「だけどアンタの知りたいことはそうじゃないんだろうね」
声はいくらか穏やかだ。ただ、温度は変わらない。
「ネコ・グロテスクがどういう意味を持つ者なのかっていうよりも、アレが、『どうしてあんなことをしてたのか』『どんな状況でそうなったのか』ってことの方が知りたいんだろう。ちがうかい?」
「……うん」
「だろうね。優しい坊や。だけど、そこから先は確かでないことの方が多いんだ。確かめられないことだってある。そんな不確かな情報をついさっき会ったばかりの他猫に聞くだけで、坊やは『はいわかりましたありがとう』って納得できるのかい? アレを見て。アレの姿を見て、アレの声を聞いてアレに襲いかかられて。……なのにそれで腑に落ちるってんなら、それはネズミの糞ほども役に立ちやしない、”知識と言う名前をつけただけのゴミクズ”だ」
キャティは、一度周りを見渡してからその場にしゃがみ、
「いいかい坊やたち。ここから先はそういうところなんだ、誰も意味までは教えちゃくれないよ? ぼうっと生きてりゃ知らないことだらけさ」
言いながら自分のこめかみを爪でツンツンとつつく。
「アンタたちはこんなところまで来てるんだ、考える頭は持っているんだろう? だったら使いな。その目で見て、耳で聴いて、においを嗅いで、肉球で触れて、ヒゲと毛とで感じて、時には味わってみるんだ、観察するんだ。そうして事実をひとつひとつ集めて推測し、想像力の限りを尽くしな。山ほどの失敗を積み重ねながらね」
冷たい火を吐くように一息に連ねて、その勢いのまま立ち上がり、
「アンタたちに必要なのは体当たりだよ」
その視線を別のところに向けた。追ってみればそこにいるのは果実のマイケルだ。まだ路地の隅で嘔吐し続けている。
「アンタたち、”スラブの操縦”をあの小太りチャン1匹に任せたろう?」
「なっ!? どうしてそれを!」
果実のマイケルの背中をさすりながら虚空のマイケルが振り返った。
「まっすぐだねぇ。そんなんでアタシが答えると思うのかい?」
言われて子ネコは「くっ」とアゴを引く。
「まぁ長くここに居着いてると、色々と便利な伝手が出来るってことだけは教えておいてあげる。それよりもだ。わかったかい? アタシがあの小太りちゃんに何をさせたのか」
すると叩かれたように、
「「芯か!」」
と虚空と灼熱の2匹が応えた。
「そこですぐにハッと出来るあたり、アンタたち2匹は頭が回るみたいだね。茶色の坊やはどうだい?」
茶色いマイケルは目をキョロキョロさせてから、自信なさげにつぶやいた。
「し……芯をとった」
「イーッヒッヒっ!! そのまんまじゃないかいこのおバカさんめ! まぁ間違ってないから良しとしようか。そう、小太りちゃんはスラブの操縦と同じように、『ナカミウリ』に触れて芯をとったのさ」
相づちをうつ茶色いマイケル。
「つまりアタシが言いたいのはね、『ネコ・グロテスク』が何なのかを知りたければ、実際にアレらに触れて”芯をとって”みなってことさ。そうすりゃ見えてくるものもあるってもんだよ。物事を本当に知ろうと思うのなら、ぶつかっていくんだ。いいかい? ぶつかっていきな」
その後に「子ネコにはキツイことだろうがね」とうつむきがちに零したキャティの顔はどことなく曇って見えたけど、
「ゲロまみれになった分、あの小太りちゃんはアンタたちの前を走ってるんだよ」
そう言って持ち上げた顔は――
ドドドドドドドドドドドドド
「え、なにっ!?」
「大通りからだ! 土煙が上がっとる!」
「火の粉も散って……なにか降ってきているな、気をつけるんだっ!」
「ちょっとおしゃべりが長すぎたみたいだねぇ。もう来ちまった」
『なんだなんだー!?』
何か知っているらしいキャティを4匹が振り返る。あと、風ネコさまがいた。
「何って、決まってるじゃあないか。ここから先はぁ、目をそらすんじゃないよぉ?」
――その顔はやっぱり、血生臭さく嗤っている。
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