お正月の新聞に谷川俊太郎さんの詩が掲載されていた。
正直なところ詩はよくわからない。
文章に濃さがあるというのは割と早い段階で分かった。
同じ散文でも文豪と呼ばれる人たちの作品は濃密で、一文を読むのに2分も3分もかかってしまうことがしばしばある。
会話の連続など、軽く進んでいくシーンももちろんあるが、やり取りの中にいくつもの、情景や思惑、人間関係の模様などが描かれていたりするのだから驚かされる。なんて面白い世界なんだろうと思わずにはいられない。
そうなりたい。
そこで目をつけたのは短歌だった。
はじめは俳句を見たが短かすぎる気がして、短歌から学ぶことで一文に濃さを求めた。 言葉のつなぎ方や雰囲気の出し方、流れ などなど、応用できるところが多い。新聞の文芸欄には感謝したい。なにせプロによる解説まで載っていて、考える参考になるのだから。
ただ、詩は避けていた。
リズムを感じきれないからかな、と思う。
音楽の歌詞はとても馴染みやすい。音楽そのものにリズムの概念があるのだから当然だろう。一度曲を聴いてから歌詞だけを見ても、頭の中で勝手にリズムが刻まれている。
でも詩は……心地よく感じたことがなかった。
『汚れっちまった悲しみに』という有名な詩がある。詳しい話は記憶の彼方に旅に出たので中原中也の作品だということくらいしか覚えていないが、この詩のリズムは頭に残っている。なんとなく良いと思ったことも。
それでも「あー……なんとなく」くらいの共鳴度でしかなく、結局それっきり詩からは距離を取って生きていたと思う。
それが1月3日に変わった。
谷川俊太郎さんの詩を読んで見え方が変わった。いや、見え方じゃない。
味。
味があることに気づいた。
慣用句としての”味がある”ではなく、限りなく味覚に近いものがそこにはあったのだ。
ほんの少しだけ引用しよう。『いつでも山が』という題である。
思い出すのではない
忘れることができないだけだ
谷川俊太郎『いつでも山が』より
一度で意味をとらえきれず、「ん?」と引っかかりを紐解いていると、ジュッとよだれが湧いてきた。
なんでだよ って思うかもしれないけれど、詩の意味を考えた時、口の中に味が広がった。
もう少しだけわかりやすい……かもしれないところを引用すると、
分別くさく満足と諦念を分けたりはせず
ただ深い賛嘆の念をひと知れず抱いて
私は虚空におめでとうと言う
谷川俊太郎『いつでも山が』より
「満足」と「諦念」……なんとなく分かる。うん。
それを分けない感覚って?
……ああ、分かってきた……。
はい、よだれ ドバドバーッ。
こんな流れで味を感じた。わからないよね。もっと言葉を使いこなせたら伝えられるのだろうけど、今はムズカシイ。しかしまぁ、どう生きればこんな感性でいられるのか。考えずにはいられない。
詩ってさ、感じようとすれば うんと身近になるんだろうな。
正月早々、お腹いっぱいでした。
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