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けぶる雪景色がぐらりと揺らぎ、茶色いマイケルは雪の上におしりをついた。
左手側、顔の近くなったキャティは、つかんでいた左足から手を離し、カリカリと傷口を爪で撫でながら言う。
一度逃げたヤツは何度も逃げるよ。
言い返す余地はあった。ただ、記憶をさかのぼろうとすると目が泳ぐんだ。どうしてキャティがそんなことまで知っているのかは分からないけれど、確かに手紙は出していない。くしゃくしゃに丸めて捨てた紙も1枚2枚じゃすまないだろう。
降りしきる雪片が、いやに大きい。
坊やを責めてるんじゃない。
それだけ世界が理不尽って話さ。たくさんあっただろう? 理不尽が。理屈でやり込めようとする者、力でいたぶろうとする者、謀(はかりごと)に巻き込む者、心をもてあそぶ者。病は忍び足でやってくるし、死はいつも影に潜んでる。自然はきまぐれで、時は待ってくれない。どうにもならないことが多すぎて、どこで心を折ってもおかしくはないんだ、この世界ってやつはね。
ままならないことばかりさ、嫌になるねぇほんとうに。
コクリ、と頭が垂れたのは頷いたからじゃない。首に力が入らなかったから。
キャティの声は優しかった。
逃げたことのないネコなんていやしないよ。天気を読み、争いを避けて、健康に気をつかい、死を遠いものと思い込む。ほら、誰もが逃げている。逃げなきゃ飲まれちまうからさ。
ただれた顔が下を向く。その濃い影を目にすると、ぎゅっと胸を締めつけられる気持ちになって、何かあったの? と尋ねずにはいられなかった。
キャティは目を伏せて、静かに頭を左右に振った。そして茶色いマイケルを見上げる。
坊や、あんたにとって散々なことを言っちまったけどね、けっして憎くて言ってるわけじゃあない。しっかりと見て欲しかったのさ。これまで歩んできた道と、いまの気持ちをね。
そう悲しい顔をするもんじゃないよ、坊やにはまだこれからの道があるって言ってるのさ。
聞きたいかい、と尋ねたわりに、返事を待つ気はないらしい。
ネコはねぇ、希望を絶たれちゃ生きてはいけない。わずかだろうとそこに光がなくちゃ、正気じゃいられない。
坊やには現実的な道のりってやつを教えてあげる。これから言うことは他の誰でもない、坊やだからできることだ。あたしやあの神の歩いた道だけは歩いちゃいけないよ、敵だらけだったからねぇ。まぁ倫理感ってものをかなぐり捨てちまった代償か。
だけど、坊やの望みは悪かい?
そうさ、だったらできる。邪魔は入らない。羨ましいねぇ、坊やにはあたしにできなかったことが出来るのさ。
教えてあげる。よぉく聞いておくんだよ。
特別賞をとり続けな。
必要なものをひとつひとつ集めていくんだ。
記憶と存在を保全して、神の権能行使の権利を得て、遠くを見通す目を貰い、過去を見る目を手に入れる。研究所もまだあるからねぇ、行けばなにか残ってるかもしれないよ。今なら雷雲の神も敵にはならないし、他の神たちに協力を願い出るのも得策だ。
道筋をたてて、必要なものを用意できさえすれば、たどり着けない場所はない。逃げ続けた果てにたどり着ける場所もある、それを忘れるんじゃあないよ。
熱い吐息が、雪の舞う中にとけてゆく。
大切なものを取り戻すための道は、ほんとうに、どうしようもなく長いもんさ。でも坊や、あんたはあたしに比べたらそう遠くない。あと少しじゃないか。
ねぇ、キャティ。
なんだい坊や。
キャティの願いは何だったんだろう。
雪の編んだレースカーテンは、彼女の顔をまるで違うもののように見せた。
雷雲ネコさまに協力してまで、何を求めてきたの?
なあに。もう終わったことさ。
でもさ、なにかできることがあるかもしれないよ? ボクがいうのもあれだけど、邪魔が入って出来なくなったことなら、今度は邪魔をされないような方法で目指せばいいんじゃないかな。誰かを悲しませる方法じゃなければ、ボクも手伝うし。
火傷の痕も痛々しい彼女の手を両手でおおう。すっかり冷えていて、固まった血が肉球をつんとつく。キャティは苦笑いをしてゆっくりとその手を払った。
爪を研いで次に備えな。あれもこれもと欲張っちゃいけない。外は何が起こるかわからないからねぇ。坊やはまだ、知らないことだらけなんだから。
するとキャティはまた傷口に爪を添えた。感覚がなくなっているわけではないけれど、痛みはない。身体はもう半分以上、雪の中へと埋もれていたよ。
この冷たい雪の中で、いつものように自分を感じればいいのさ。自分だけを見ていれば、ネコだろうが神だろうが怖いものはないからね。何を言われようが気にしなくなる。目指す道の途中になにがあったとしても、ここでああしてじっくりと構えていれば、必ず最後の最後には、本当に大切なものをつかみ取れるはずなんだ。いいかい、世界に絶望しちゃあいけないよ。今、坊やは目指す場所への一歩を踏み出したばかりなんだから。
さぁいい子ネコだ。雪に埋もれよう。
ず、ず、ず、と雪の中へと引きずり込まれていく茶色いマイケルに恐怖はなかった。傷の痛みはないし、雪はなぜかふわふわのパウダースノウになっていたからね。顔を埋めるときは少しだけ緊張したけれど、苦しくはないし闇に不安もない。
頭上で、光が小さくなっていく。
いつまで見えているんだろうと思っていたら、雪片がひらひらと鼻の頭に舞い落ちて、わずかな冷たさに気を取られているうちに、それらは消えていた。
なにも見えなくなっちゃった。
身じろぎするたびに雪の擦れる音がした。
身体からはすっかり熱が失われていて、毛と毛のあいだに入ってきた氷の粒は、肌に触れてもとける様子がない。
それでも自分の温度は感じるから不思議なものだ。ひんやりに包まれて、熱いところと冷たいところがはっきりと分かる。外だけじゃない。鼻から入った冷気は、身体の中のかたちまで描いていた。
世界と自分の境界線。
ここに留まれば、自分の音だけを聞いていられる。
思わずヒゲが持ち上がる。
これを安心感と呼ぶのは胸が痛い。だけど自分に流れる音だけに耳を傾けていると、だんだんと外のことがどうでもよくなってくるんだ。自分の小ささが分かってくると、今はこれくらいで精一杯なんだよと心がやさしく呼びかける。身体が潔く、トクン、トクンと相づちを打つ。
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