***
家畜を食肉にするまでにはいくつかの工程がある。
至極大雑把に分けると、
- 気絶させる
- 血を抜く
- 皮を剥ぐ
- 中身を出す
- バラバラにしてさらに小さくする
の5段階。もちろん肉や”中身”には色々な部位があるし、洗浄も複数回行わなければならないので、”4番目”や”5番目”などと簡単にくくるとスタッフネコたちに呆れられるかもしれない。
ただ、どれだけ複雑な工程で分けたとしても、ムルにしてみれば一つの流れでしかなかった。鼻歌を歌いながらだってできてしまう。
(この工程ってすごく優しいよねぇ。最初に気絶させて、痛みが無いうちに血を抜いちゃうんだからさ)
「て、てめぇ、なにふざけたことしやがるこのカスネコやろうがっ!!」
(あ、もう起きちゃった。ちゃんと頚椎狙ったつもりだけど、やっぱりぼくの力じゃ弱かったみたいだ。みんながいてくれたらよかったのに)
「おいここ何処だよ! どこ連れてきて……まっ、おま、バカじゃねぇのォ!?」
(ううん、そんなこと言ってられないよね。きっとみんな今頃、自分の出来ることを見つけて、それに一生懸命打ち込んでるんだ)
「ふっざけんなよぉぉぉ……おめぇ病気なんじゃねぇのかぁぁ?」
(だからぼくだって1匹で頑張らなきゃ。ウーラ院長ネコがいたらきっと、そういうと思うんだ)
「くんなくんなくんなくんなくんな……」
(みんなは先に進んじゃったけど。ぼくはここから。今までやって来たことを地道に地道に積み上げていって)
「……悪かったって悪かったよもうしないからアンタあんまり喋らねぇからつい調子にのっちゃってもうやめるからだめだくんなくんなそれはおいやめてごめんなさいごめんなさいゆるしてくだ」
(そしたらきっと、コミュニケーションのしっかりとれるちゃんとした社会猫として一匹立ちできるはずだ。今のぼくからしてみれば途方もなく遠いところを目指してるっていうのは分かってる。だけど、たとえどんな小さな石でも敷き詰めていけば次へと進める道が出来るんだ。それはもう経験して来たことじゃないか。ばい菌に侵されて腐ることなく進まなきゃ!)
給料をもらい始めてからというもの、ムルはよく香辛料を使うようになった。
それは薄い味つけのものばかりを食べてきたムルにとって、まさに至福の日々。
とはいえ、いくら美味しいものでも毎日食べると舌が慣れてきてしまうのはネコの悲しい性だろう。この頃にはもう、香辛料をあまり特別なものとは思わないようになっていた。
だからなのか。
久しぶりに作ったミンチ肉は、香辛料もつけずにそのまま食べてみた。すると鼻が潰れてしまいそうなくらい強烈な臭みがあるにもかかわらず、その奥に、光るような脂身の甘みを見つけたのだ。
(これ……ああっ!)
それは紛れもなく”ごほうび”の味だった。
あの、大量の香辛料で誤魔化されていたけれど、確かに存在していた本物のおいしさ。それが”あの頃”の懐かしい記憶を次から次へと引っ張り出してくれる。
小さな目標を達成するたびに大喜びして抱きしめてくれたセンセイたちの温もりや、難しい課題に取り組んだ時仲間ネコたちがさりげなくコツを教えてくれたことや、何度も聞いた憧れの”鎧”の話……それになにより”ごほうび”が山盛りだった夜のことを……!
(そうか、今でも”ごほうび”はもらえるんだ!)
ムルは生のままのミンチ肉を、むせび泣きながら食べていった。
全部は食べられないから、小分けにして冷凍庫にいれて、なにか一つ、自分で作った小さな目標を達成した時に、それを食べることにした。
それからの日々は、あの頃に戻ったようで、ムルを本当にいきいきと輝かせた。
***
絞首刑が決まった時、年かさの刑事ネコが相方の若いネコを連れて面会に来た。
年かさのほうは、孤児猫院を出てからちょうど200件目の”個別消毒”に及ぼうとしたムルの手足を、ネコ拳銃で正確に打ち抜いたネコだ。
年かさの刑事ネコは、ムルがネコ面会室に入ってくるなり、
「よう」
と手を挙げて軽い挨拶をした。
「お、お、おひさしぶりです、け、け刑事ネコさんたち」
ムルは後ろ手にネコ手錠をかけられたままパイプ椅子に座らされ、連れて来た刑務官ネコは部屋の隅に用意された机に向かう。
「決まったそうだな。……何か今、思うことはあるか?」
問われたのは絞首刑について。ムルは唸るように考えてから声にする。
「や、や、やっぱりぼくには、ど、どうしてこうなったのか、わ、わから」
「ふざけるなぁっ!」
若い刑事ネコが机に拳を打ちつける。
「お前が一体どれだけのネコを……!」
「まぁ、待て」
「でもフレイルさん……」
「言いたいことがあるのは分かる。だが、俺はこいつの感じてる疑問の方が大事な気がするんだ。だから、な?」
フレイルと呼ばれた刑事ネコはこれまでに、ムルから聴取した情報を元に『ウーラ孤児猫院』や『ピサト』について調べ上げていた。証拠資料は、公表する前に軍部から家族ネコを猫質に取られ、抹消することになったのだが、その代わりにより詳しく施設や”消毒”の話を聞いていたのである。
「ゆっくりでいい。続きをきかせて欲しい」
ムルはおどおどとうなづき、
「ぼ、ぼ、ぼくは小さなころから、しょ、消毒をしてきました。そ、そ、それはいい事だとい、今でも思っていま、す。だ、だ、だってばい菌は、よ、よくないものだから。ぼ、ぼくが捕まったのは、い、い、院が無くなったからです、か?」
と一生懸命に語った。そこへ若い刑事ネコが、
「もう戦争は終わってるんだよっ」
と嫌悪感をあらわにして吐き捨てる。
「せ、せ、戦争中だったから……せ、せん、戦争中だったからしてよかったの?」
フレイルは口元を引き締め少し下を向き、「よくはない」とためらいがちに口元でつぶやく。それから今度はムルの顔をまっすぐに見て、
「よくはないんだよ」
と震えそうになるのを我慢して、落ち着いた声で言った。
「で、で、でも、しょ、しょう消毒したばい菌は、も、もっと多くのネコを殺してたって、そ、それに成ネコたちはみ、み、みんな戦争でネコを殺して」
「正当防衛だっ!! 攻めてきたのはあっちが先だ! 私たちはただ自分たちの命を守ったに過ぎない! お前みたいに狂った猫殺しと一緒にするな!」
隙間の無い小さな部屋に響き渡った怒鳴り声は、隅にいた刑務官ネコ。彼はフレイルのように事情を知らないため、今にもムルの首元に食らいつきそうな顔で、震える手元と帳面を睨んでいた。それから、「申し訳ありませんでした」と言って目をつむった。
フレイルは刑務官ネコになにも言わず、怯えているムルにこう語った。
「ムル。お前は生きていただけなんだろうな。前に進もうとしただけなんだろう。お前が俺に言ったことを覚えているか? 俺が銃でお前の手を撃ちぬいて、それから組み敷いた時なんて言ったか。お前、ひどい痛みにうめきながらも、『あなたもすごく頑張ったネコなんですね』って言ったんだ。俺はさ、お前の事件をずっと追っていたからわかる。こんなことを言うのも変だが、あんなのただの酔狂で出来ることじゃなかった。毎度毎度精度の上がるお前の腕に舌を巻いたよ。『ああこいつは進もうとしているんだな』って密かに思っていたんだ。頑張っていたんだろうな、ずっと。他に方法を知ってたら……。
俺は悔しいよ、ムル。
どうしてお前みたいに前を向いて進んで行けるネコがあの時代に生まれたのかって、そればかり考えるようになっちまった。どうして、本当のお前たちのことを誰も知らなかったんだろうって、どうして、誰も気づいてやれなかったんだろうって。誰かが教えてあげられていたら……」
真下を向いたフレイルがどんな顔をしていたのか、ムルは見ていない。
ムルもうつむき、手の平を広げてそこにあった弾痕を見ていたからだ。
その傷のせいで牛刀どころかペンさえ握れない手になった。けれども、肉球と肉球との間を奇跡のように貫いたその弾痕は、ムルに残された唯一の宝物だった。
ムルの刑は、それから間もなく、異例の速さで執行された。
首に縄を掛けられ足元がふわっと浮いた瞬間にムルの頭をよぎったのは、
『君たちは、鎧に乗るために選ばれた特別な子ネコたちだ。この鎧は、不実な”ばい菌”を消毒するための力を持っていて、ばい菌どもの侵略から私たちのことを守ってくれもする。そして、どんな”ごほうび”よりも君たちを幸せにしてくれる! 苦しい訓練も、悲しい出来事も、すべてはこの鎧に乗るまでのこと。鎧に乗れば、それまでのどんな辛いことからも解放され、素晴らしい喜びが得られるのだよ……!』
というウーラ院長ネコの言葉だった。
(鎧、乗りたかったなぁ……)
***
コッ
という軽い音を首の辺りで聞いた後、ムルはとてつもなくやかましい場所に立っていた。
そこは大勢のネコで溢れかえっていて息苦しく、地獄に連れて来られたのだと思った。その痺れるような放心状態から立ち直ったのは、地面が無くなり大きな穴に落とされた時だ。周りを見れば他のネコたちも一様に大穴に落ちているらしく、これはさすがにもうだめだと思った。そんなところへ、
「よう、頭働いてっか? いいか身体の中心に力を込めてみろ! それで浮けっからよ!」
と耳の垂れた上半身裸のネコがやってきて、浮き方を教えるだけ教えて、すぐに別のネコの元へと飛んでいった。その、どこか面影の有るネコのあとをこそこそつけていたところ、どういうわけか子ネコたちと対峙することになる。
たどたどしい連携ながら、自分たちの出来ることを懸命にこなす子ネコたち。
そこに懐かしさを感じないはずもなく、ついつい動きが甘くなってしまう。しかし、「こんなに頑張る仲間ネコを放っておくなんて!」と、寝ているネコを狙ったのが悪かった。恐ろしいほど自然な流れで力を返され、前後不覚になってしまう。追撃を試みるも、いま一歩というところで上位の存在の力にからめとられてしまった。
仕方ないと、苦笑いを浮かべようとしたムル。
だがその時に見た、茶色い子ネコの表情が、胸の奥深くまでずっぷりと突き刺さった。
(やめてよ。惨めになる)
そうしてムルは砕け散った。
身体が粉々に砕けていく、様子。
それをすぐそばで眺めているという不思議な感覚。
ムルの感情の波は2つに分けられていった。どうしようもなくもどかしい、そんな気持ちだけが寄せ集められた『黒い靄』の方に、意識は留まった。
意識を乗せて、黒い靄が流れだす。
引き寄せられたのは、ひどく陰気な街だった。
そこでムルは、猫生の最後に叶えるべき、大きな目標を成し遂げる。
やっと、幸せになれるのだ。
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