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ムルは屠殺場で働き始めた。
食品プラントラインの再稼働によって増産された家畜。それを解体するネコの手が足りていないのだという。
そういう状況にしては安い給料だったが、元々浪費するという感覚を持っていないムルにしてみれば、給料などというものは二の次であり、それよりも自分の出来ることを伸ばしていける場所を得る方が大事だったのである。
面接を担当した管理職ネコははじめ、おどおどと話すムルを見て「今回は残念ながら」と言いかけたのだが、解体の経験があるというその顔を見て興味を引かれ、試しに血を抜いたばかりの牛を一頭与えてみた。「ではまず……」と皮を剥ぐ指示をしようとしたところ、なんと、アジでも開くように軽々と、牛刀一本で全行程を解体し終えてしまったのだから仰天だ。口を出す暇も無かった。
「君1匹でうちにいるネコ10匹分は仕事ができるだろう。なに、しゃべりが苦手というくらい何という事は無い。しゃべる時間もないほど仕事を持ってくるから覚悟してくれよ?」
おどけて言う管理職ネコにムルは心から感謝した。
血抜きの終わった肉をさばくだけの食肉加工専門店と違い、ムルの働くこの店は屠殺から加工・販売まですべてを手掛けている。そのラインをムルは1匹で任されることとなった。他にもスタッフネコはいたけれど、1匹で十分に対応できると見込まれてのことだ。
(ようし、ここでなら頑張れそうだ)
朝から晩まで黙々と仕事にうちこむ毎日。
時々、機械の故障のために他ネコたちの加工ラインから応援を頼まれることがあり、その時ばかりは口を開く必要があるものの、そこでの反応も悪いものではなかった。
それはそうだろう、応援に来て圧倒的な手際でもって仕事をこなしていくムルは、偉ぶることなく、逆によわよわしい苦笑いを浮かべるのだ。その姿に、大半のスタッフネコは好感を持っていた。
(これなら少しずつでも、みんなと打ち解けて、またチームを組んだり……)
しかし、そんな適度に温かくてきれいな場所ほど、ばい菌には弱いらしい。
その新入りネコは、腕っぷしに自信のありそうなネコだった。
丁度そのころ加工用の機械を点検に出すことになったらしく、いつものようにムルは応援に呼ばれていた。新入りネコは紹介されたムルの手際を見て、確かにスゴイとは思ったのだが、何度か話すうちに、”へこへこするばかりのヘタレたネコ”と見下すようになった。
すると次第に横柄な態度をとるようになり、
「こ、こ、こここここれは、ここここうつかつかつか使って……へぶぶぶ」
と、近くにいるのを知っていながら、極端な物まねで笑いを取ろうとし始めた。もちろんスタッフネコの中には「そういうのはダメだよ」と注意するネコもいるにはいるが、新入りネコの見た目と何をしだすか分からない頭の悪い勢いに押されて口を噤む者の方が多い。
新入りネコはさらに調子づき、そのうちムルに個人的な使い走りをさせるようになった。ちょっとした買い物を頼むだけの大したことのない内容で、ムルも楽しい職場に波風を立てないようにと気をつかって「はいはい」と言うことを聞いていたのだが、
「はぁ? 青いヤツっつったじゃないっすかぁ! なんで赤買って来てんすかぁ、目ついてんのぉアンタぁ」
というちょっとした失敗が重なってしまう。ムル自身は、
(やっぱりぼくはこの仕事以外はむずかしいなぁ)
と思う程度であまり気にしなかったのだが、だんだんとこのやり取りを聞く他のスタッフネコにも、「これは言われても仕方ない」というような空気が流れ始めた。
固まっていく職場の空気。
ムルを嘲る新入りネコの声は次第に大きくなり、怒鳴り声になり、ことあるごとに小突いたり足をかけられたりと、身体的なものにまで発展していった。
(こんなの大したことじゃない。それよりも仕事をしよう)
自分に何度もそう言い聞かせるムル。
しかし、憔悴した心というものは、目を凝らさなければ見えはしない。
或る、祭りの日のことだった。
店が屋台を出すことになり、裏方として手伝いに入るムル。下ごしらえを終えて帰ろうとしたところでしかし、新入りネコに呼び止められてしまう。
「何帰ろうとしてんすか、普通最後まで手伝うっしょ」
他のスタッフネコたちは関わりたくないと見てみぬふり。その圧力に負けてしまったムルは、案の定うまく客をさばくことが出来ず、店の内側で新入りネコに足を蹴られ続けていた。時には、
「いやぁすいませんねぇ、コイツほんと使えないやつで。何させてもダメなんすよハハハ」
と、客ネコの前で後頭部をひっぱたかれ笑いものにされたりもした。
ただ、さすがにその様子を見過ごせなかったスタッフネコの1匹が、
「ムルくんずっと仕事しっぱなしでしょ? ちょっとその辺回っておいで」
と言って、他のスタッフネコに同意を求めるように「ねぇ」と先回りして了承をとっていた。新入りネコは面白くなさそうにしながらも、「いっすよー」と追い払うように手を振る。
祭りは賑わっていた。幸せそうな笑みがいくつも並んでいる。
猫混みを歩きながらムルは思わず深いため息をついた。
(やっぱりぼくに、院の外での暮らしは向いてないのかなぁ)
前から歩いて来たネコとぶつかりそうになり、慌ててネコたちの流れから外れ、道の端に立ちすくむムル。しばらくそうしていたけれど一向に気分はよくならない。そろそろ店に戻らないといけないなと顔を上げ、その暗がりから向かいの屋台を見た時だ。
笑った鬼ネコ面と目が合った。
それはムルの持つお面とは比べ物にならないくらい安っぽい作りだったけれど、確かに笑っている。ムルはウーラ院長ネコの言葉を思い出した。
『笑顔にはね、免疫力を高めるという効果があるんだ』
(ぼくは今、心が弱ってしまっているんだろうな。免疫力というものを高めれば、きっと前みたいに元気に仕事ができるはずだ)
ムルは小銭を出して面を受け取り、しばらくその表情を見つめてからひっくり返し、しっかりとかぶって整えた。懐かしい感触。
すると、すうぅっと息が肺に入ってきた。
(なんだか久しぶりに息を吸った気がするなぁ)
息をしてみると、頭の中がすっきりして、それまでのすべてがつまらない事のように思えて仕方がなかった。ムルはそのまま祭りを一回りし、楽しそうなネコたちの顔を眺めながら、そしてそれを被ったまま仲間ネコたちの待つ屋台へと戻り、正面からその場所を眺めた。
一目でわかった。
1匹だけ違うものがいると、そう認識した瞬間、血液が沸騰した。
滅菌衝動が濁流のように駆け上がってきた。
お面を通して見ると本当の姿が見えるんだ、と興奮した。
鬼ネコの面は、真っ赤な口を耳まで裂いて、笑っている。
ムルは、屋台の後ろに回り込み、煌々と照り付ける照明と暗がりとの境界に立っていた。祭り客の喧騒と発電機の低いうなりとを聞きながら、働いているネコたちの後ろ姿をじっと見つめる。ただ黙って、ずっと。
するとそこへ、新入りネコが肉の在庫をとりに下がってきた。ネコは、
「うぉっ!? 何だオマエかよ、ビビらせんなっての……」
と暗がりに立ったムルを見てしっぽを立てて驚いた。ただ、ムルに驚いたことがだんだんと苛立たしくなったようで、表情が憎々し気なものに変わっていった。
「ちっ、何ボケっと突っ立ってんだよオメェ。戻って来たんならさっさと手伝わねぇか。忙しいって分かるだろ? 気色の悪いもん被ってんじゃねぇ。ほんっっっっっと――」
――使えねぇヤツ!
面の下の目がカッと見開かれる。
しかしイキリたつ新入りネコはそれに気づかない。気づいていても苛立ちを強くするだけだったかもしれない。そして、ピクリとも動かず、しかも思い通りに謝りもしないムルを見て、
「あぁ!? 何だよ、なんか俺に言いたいことでもあるわけぇ!?」
と毛を逆立てて声を張る。気に食わないことが気に食わないというように、顔をしわくちゃにして牙を剥く。大きな声に振り向くスタッフネコたちは、
「……」
ぼそぼそとつぶやいているムルを心配げに見つめていた。間に入って止めようとしたスタッフネコもいたのだが、いちはやく反応したのは新入りネコだった。
「帰るぅ!? 帰りてぇだと? ふざけんじゃねぇぞこっちは仕事でやってんだ」
襟首をつかみ上げ、額を寄せて怒鳴り散らすと、反対の手で拳を作って持ち上げる。
「急に抜けるなんて社会猫としての責――」
にこぉ
お面の向こうで笑うその眼に気づいた新入りネコ。その言い知れない気味の悪さに毛が一気に膨れ上がった。そしてそれを恥じ、ムルを思い切り殴りとばした。ムルの身体が茂みの上に乗る。
「てっめぇ、キショいんだよぉ! 使えねぇヤツのくせに!」
『使い道を考えもせずに、『使えない!』と嘆いてはいけない』
ウーラ院長ネコの声が頭の中でこだまする。
「ぶっ殺してやる!」
新入りネコが肩を怒らせながらムルに近寄って来る。
『使えないから見捨てる、使えないから切り捨てる、使えないから壊してしまう。そういうものは憎むべき悪だ。無駄遣いは悪!! 悪! 悪! 悪!』
(悪。そうか、このネコはぼくを壊そうとしているんだ)
「二度と仕事できねぇようにしてやるからな!」
(ぼくにはまだ出来る仕事があるのに。なのにこのネコは壊そうとしている。これは無駄遣いだよね、ウーラ院長ネコ)
「ちょっと裏来やがれ!」と乱暴に襟を引っ張る新入りネコに「何してるの!」とスタッフネコの1匹が勇気を振り絞って声をかけるが、「こっち気にしなくっていいんで、仕事しててくださいよ。コイツが話あるって言ってるんで裏いってきます」と脅すような声で言われると、しゅんとして下を向いてしまった。
(あんなに周りのネコを困らせて……ねぇ、院長ネコ。あれってやっぱりさ)
『ばい菌だ!!』
茂みに倒れたムルの襟首をつかんで、引きずりながら、新入りネコが林の奥へと分け入っていく。
「覚悟しろよてめぇ……」
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