(23)5-9:殺猫鬼

***

 暗がりにぼうっと浮かび上がる青白い、鬼ネコの笑顔。

 ただし本当に笑っているかどうかはわからない。お面だったんだ。

 そのネコは、昏い水の底から浮かび上がろうとするように、茶色いマイケルたちに白い手を伸ばす。肉球と肉球の間に弾痕のある白い手だ。それは、「引き上げてくれ」と助けを求めているようにも見えるし、ひきずり降ろして道連れにしようとしているようにも見えた。

 茶色いマイケルと虚空のマイケルはすぐに後ろに飛んだよ。灼熱のマイケルの寝ているところまで一気に飛びすさった。

「どっ、どしたの2匹ともぉ、なんかヤバぁ!?」

 スラブとプルームの境目にいた果実のマイケルが慌てて2匹に尋ねる。

「鬼ネコ面だ!」

「えぇっ? あの鬼ネコ面さん? なんでこんなところにぃ」

「ちがう、別の!」

 そう、今登ってきているのは、言葉を交わした鬼ネコ面(般ニャ)とは別の、青白い顔で気味悪く笑っている鬼ネコ面。

「マタゴンズと一緒にいたヤツぅ!? 追っかけて来たってことぉ!?」

『ずっと張り付いてたんじゃねーか? 動いてたらとっくに気付いていると思うしよー』

「こわぁっ!」

 果実のマイケルが雪だるまネコみたいに毛を膨らませて震えた。

「すぐ出発できそう?」

「す、すぐはムリぃ! スラブにある”ドロドロ”が多すぎるんだ。でも、そいつぅがヤバイやつならオイラも――」

 と言いかけた時、

「こ、こ、こんにちわぁ……」

 べちゃっ

 青白い鬼ネコ面が、右手と上半身をプルーム上に乗せた。

 ぐっしょりと暗く濡れたネコジャケット。ファスナーはアゴの隠れるところまで閉めてある。つかまる場所を求めているのだろう、右手がうぞうぞと動きまわり、にちゃりぬちゃり、とぬめった音をさせていた。

「――ひぃぃい!! ここはオイラに任せてオマイラそっちの相手してぇ!」

 果実のマイケルは「何も見てない何も見てない」と言いながら背中を向けて操縦に集中する。逃げた! 茶色いマイケルたちは苦々しい顔を一瞬交わし、それから鬼ネコ面へと身体を向ける。

「は、は、はじめましてぇ……」

 震えるような、だけどその奥で笑っているような、ネコを不安にさせる声。青白い鬼ネコ面はもう身体の半分まで登って来ていた。

「待て動くな! 動けば敵とみなす!」

 止めたのは虚空のマイケルだ。

「で、で、でもぉ、登らないとぉ、お、落ちちゃうからぁ……」

 証拠でも見せるように、その手はわざとらしく震えている。

「ダメだ! まず聞かせてくれ、君は何をしに上がってきた」

 子ネコは鋭く、頑とした態度で言い放ち、「そして」と腕を伸ばして指さした。

「もう片方の手に持っているソレは何だ!!」

 そう、鬼ネコ面はずっと左手を後ろに隠していたんだ。見えないところで岩をつかんでいるにしろ、元々片手しかなかったにしろ、”肩の位置”がおかしい。絶対に何かを隠している位置にある。

「あ、あは……あひひ……」

 お面の表情よりも、控えめな笑い。

「お前!」

 身構える2匹のマイケル。

 だけど青白い鬼ネコ面は、虚空のマイケルの静止なんて無かったように、ずるんずるんと服を擦りながらよじ登ってきた。身体から滴るものを、手形でもつけるようにあちこちに塗りたくる。

「き、き、気付くんだね。す、すごいなぁ子ネコって」

 息切れが無い。元々こういうしゃべり方なんだろう。

「ち、ちゃんと生きたいって、お、思ってる」

 お面ごしに伝わる喜色。そして、

「じ、じゃあきみたちはたいとーだ。い、生きたいって思ってるぼ、ぼ、ぼくとたいとー。な、ならさ、い、いいよね? だ、だってそういうのってさぁ……――せいとーぼうえーって言うんでしょおっ!!」

 言うなりまっすぐに突っ込んできた!

 話を引き延ばせるかもと思っていた茶色いマイケルは怯む。だけど虚空のマイケルはダッと前に出て相手との距離を潰しにかかった。

「話は通じない! ここで抑えるぞ!」

「あぶないっ!」

 返事をする前に注意を促したのは、鬼ネコ面の左手に握られたものがギラリと鋭く光ったからだ。握られていたのは、刃渡り20センチほどの刃物。包丁にしては長く見える。骨まで断ちそうな重々しい金属の刃には、ラズベリージャムみたいな赤黒いものがべっとりとついていた。

「ラズベリージャムが食べられなくなる!」

「何を言っているんだ周り込め!」

 虚空のマイケルは相手と交差する一歩手前で「ふぅっ!」と息を吐いて急停止。首めがけて振られた、勢いの乗った刃物に向けて下からのネコ掌底打を放つ。だけど刃の軌道がブレることは無かった。ただし、子ネコの首がチョキンと切れちゃうこともなくって、気づけば鬼ネコ面の左手側に身を避けていたんだ。

 あれが王家直伝『脱出ネコ術』……!

 よくわからないけどすごい!

 茶色いマイケルは身を低くして鬼ネコ面の後ろに回り込んでいたよ。そこから刃物の動きに気をつけながら小さくネコパンチを当てていく。キャット&アウェイ戦法だ。

 即席の連携ではあった。だけどうまくハマっていたと思う。

 虚空のマイケルが鬼ネコ面の正面で刃物をさばき、茶色いマイケルが周りからチマチマと集中力を削ぐような嫌がらせをする、っていうね。

 ただ、相手は崩れなかった。

 普通、2匹がかりでこんな風にされたら、よろけて転ぶかたまらず距離を取ると思う。茶色いマイケルだったらいじめられたと思って泣いちゃうかもしれない。なのにこの鬼ネコ面は受け流された勢いをさらに上手に使って、茶色いマイケルにまで攻撃してくるんだ。子ネコの動体視力がいいだけに、目の前を刃物の切っ先が通り過ぎるのがよく見えて恐ろしいったらない。

「あ。き、き、きみたちってさぁ、が、が、頑張ったネコでしょう」

 声は奇妙な年季を感じさせた。たどたどしく、あまり使われていない印象を受けるのに、だけど年齢だけは重ねているような、そんな声。声も使わないと新品のままなのかもしれない。

「ぼ、ぼくたちもさ、か、かなり頑張ったんだよぉ? が、頑張ったのにいきなり放り出されて、そ、そこでも頑張ってたのにさぁ、ひ、ひどいよねぇ」

「え……何を」

「耳を貸すな茶色! 隙を作られるぞ!」

 その一声が無ければ茶色いマイケルの鼻は無くなっていたかもしれない。刃先が鼻先をかすめていった。慌てて距離を取ると、そのタイミングで虚空のマイケルも一歩下がった。すると鬼ネコ面は追いかけるでもなく、だらりと手を下ろす。

「ぼ、ぼくのことゴミとか、き、汚いものみたいに、い、言うんだよぉ。び、病気って言われたこともあったなぁ。お、同じようにしてるだけだと思うんだけど、ち、違うところがいっぱいなんだってぇ。そ、そんなの分からないよねぇ。だ、だから結局、ぼ、ぼくに出来ることだけを一生懸命やることにしたんだぁ」

 息を整えるのを待ってくれているような語り。だけど、むしろ胸が苦しくなって、息がしづらい。どんなことをしたらそんな風に言われるんだろう。

「き、キミは何を一生懸命したの……?」

 だから茶色いマイケルは思い切って尋ねてみたんだ。すると、

「ね、ね、ネコをいっぱい殺した」

 なんでもない事のように素直に言う。

「……は? な、なんで!?」

「な、な、なんでって、ぼ、ぼ、ぼくにできるのはそ、そそそれくらいしか、な、な無かったんだもーん」

 鬼ネコ面が走り出した。次の瞬間、

 ごほうびちょうだい

 ぞっとするほど無垢な声が、茶色いマイケルの鼓膜を震わせた。戦慄に固まってしまった茶色いマイケル。

「しまった!」

 虚空のマイケルの声ですぐに正気には戻ったけれど、”その時間”は戻ってくれない。鬼ネコ面――いや、『殺猫鬼』は、訓練されたとしか思えない鮮やかな動きで子ネコたちを躱すと、いまだ横たわったままの灼熱のマイケルに飛びかかった!

「お、お肉ぐれぇっ!!」

 あっ! と振り向き手を伸ばそうとする果実のマイケル。足がもつれながらも追いすがる虚空のマイケル。茶色マイケルの踏み切った足は、濡れた地面にからめとられ、滑ってしまう。

 しゃ、灼熱っ……!

 全てがスローモーションに見えたその時だ、

「むぅ……こうか?」

 灼熱のマイケルの眠たそうな声が聞こえた。

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