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大きな音はしなかった。
ただし、変化が無かったわけじゃない。
茶色いマイケルたちの正面、青空にひびが入っていたんだ。ピシリ、ピシリと繊細な音をたてながら、光の亀裂が上へ横へと広がっていく。
「雷樹……」
虚空のマイケルが『風の獣』にまたがったままつぶやいた。
言われてみると確かに樹に見えてくる。細く枝分かれした上部に比べて、下の方は幹のように太く集まっていて、もっと下を覗き込んでみればどうなるかは予想出来た。見る勇気は無かったけどね。
だけど、見たくないものほどあちらから来るらしい。
黒ネコだった。
雷樹の幹を、ト、ト、ト、と小さな神ネコさまが、谷から垂直に登って来たんだ。身体の周りにチリチリと細い放電火花を散らしている。雷雲ネコさまだろう。
お昼寝する場所はないかなぁ。
おなかも空いたなぁ。
どこかに美味しい餌でもないかなぁ。
面白い遊び道具も欲しいなぁ。
小動物いたぶるのって面白いよなぁ。
散々にいたぶって、息の切れる瞬間を眺めてるのが好きなんだよなぁ。
と、そんな声の聞こえてきそうな足取りだった。
『うわー、これ戻ってるだろー神位階。よかったなー』
風ネコさまはケラケラと笑っていた。
小さな雷雲ネコさまは一言も喋らない。さっきまでの笑い声がウソみたいに静かだ。
茶色いマイケルは、このまま何事もなく雷樹の先まで登って行ってそのままどこかへいなくなってくれれば、って願っていたけど、そうもいかないらしい。垂直に雷樹を登っていた雷雲ネコさまは、子ネコたちの目の高さまで歩いて来ると、仰け反るように茶色いマイケルの方を向いた。
そして、ごく自然に歩いて来る。
上下逆さになっていることを気にする様子もなく、平然と近づいてくるんだ。茶色いマイケルの方が逆さ吊りになったのかと思うくらい自然にね。それから小さなあくびをした。
頭を回し、口をいっぱいいっぱいまで大きく開いて、平和そうにあくびをした。そしたら球が出た。口の奥からビー玉くらいの光の球が出て、ふよふよと頼りなく浮いた。
『うげ、球雷かよ』
光の球は、スーッと滑るように茶色いマイケルたちの方へと近づいて来る。早くはない。むしろすっごく遅い。赤ちゃんネコだって避けられそうな遅さだ。
簡単に避けられそうだけど、不気味な動きだった。
身体を引けば引いた分だけ近づいてきて、灼熱のマイケルが右に一歩ずれると、それを見ていたように球雷はそちらへと寄せ、果実のマイケルが風の獣を左側へ動かすと今度はそっちへ寄ってくる。
「動くものをぉ、追ってるぅ?」
頭の中の声に、なるほどと思う。
それにしても遅い。素早く下がってもゆっくり寄せてくる。じわじわと追い詰められているようで、この鈍さは笑えない。肉球はべたべたさ。異様に静かな時間だったけれど、下手をすれば雷だらけのさっきまでよりも息苦しいかもしれない。
風ネコさまは頭を下げて足元の雪を掻いた。
『ここでやるかよフツー。どーすっかなー、怒られるかなー。でも雪ごと無くなるんだしセーフかなー。てっとり早いしこっちでいーかー。うんうん、しゃーねーしゃーねー』
その声を聞くともなしに聞いていると、頭の中で虚空のマイケルが、
「あれは芯をとろうとしているのかもしれない」
と言った。
「芯、だと?」
「芯って、誰のだろう」
「動いたネコのぉ?」
「おそらく”4匹の”芯だな。俺たち全員の中心に落ち着こうとしているように思える」
「だとするとぉ、オイラたちが動かなければアレも追って来なくなるってことぉ?」
茶色いマイケルたちは期待してしまったんだと思う。動かなければ追っては来ない。そうすればこの息苦しさから逃れられるはずだ。それが最善の行動だ、ってね。そのくらい単純にしか頭が働かなかった。
そこで終わるはずがないのに。
わざわざ雷雲ネコさまが放ったんだもん、4匹の中心にその光を浮かべるだけ浮かべて、怖がらせるだけで終わるはずがないんだ。
4匹のマイケルたちが神経質に、しっぽの先までをピタリと止めてわずか数秒。『球雷』と呼ばれた球は激しい光を発しながら大きくなった。見る間に2倍3倍と膨らんでいくのを見て、茶色いマイケルはくらっとめまいに襲われたよ。
「いかん、空だ! 空に上がれ!」
灼熱のマイケルは、茶色いマイケルのまたがる風の獣に飛び乗るなり上だ上だと声をあげた。あまりの剣幕に子ネコたちは誰一匹として口を開くことなく一斉に空へと飛びあがる。
やっぱりついて来る……!
球雷はぐんぐんと大きくなりながらも、空へと昇ってきていたんだ。しかもさっきよりも格段に速い。
「みんなバラけて広がった方がいいんじゃないぃぃ!?」
「それは得策じゃない。あれが芯を捉えるものなら、俺たちが広がれば広がるほど被害が大きくなるぞ」
「あの『尖った岩』は使えないかな? 先っちょのトンガリで光をプスッと突き刺せば」
「無駄だ。風ネコさまの反応を聞いただろう。正確な意味は分からんが、あの山ごと消滅させる攻撃かもしれん。そう想定しておかんと取り返しのつかんことになる」
クラウン・マッターホルンの消滅。
脳裡に浮かんだのは、シエル・ネコ・バザールの賑わいと、王宮でニコニコしている王様ネコの顔だ。それがどう変わるのか想像できないほど幼ネコじゃない。茶色いマイケルはもう、故郷を失ったネコたちの見せる顔を知ってしまっているんだからね。
『空だよ』
少し寂しそうに言った大空ネコさまを思い出した。
『あれは山脈の形をした空。大地の神が僕のために造ってくれた、特別な空なのさ』
遠くを見つめるような優しい声だった。
その優しさが怒りに転じれば、ついさっきまで見ていた”この世の終わりみたいな光景”よりもひどいことになるのは目に見えていた。
「できるだけ高く逃げるぞ。エネルギーを使い果たせば消えるかもしれん」
4匹はそれぞれにうなづいた。
だけど、そう長く飛んではいられない。息苦しくなってきていたし、毛の先に霜がつきはじめていたんだ。あといくらも高度を上げられないことは身体で感じていた。
膨らみつづける球雷との距離を保ちながら、茶色いマイケルは口元を引き絞り、
「ねぇ、風ネコさま」
と頭の中で呼んだ。
『なんだネコ』
「風ネコさまの力で、宇宙に出ても息が出来るようになったりしないかな」
『ネコは宇宙で息ができるのかー?』
ケラケラケラと笑い交じりのその声は、相変わらず風ネコさまだった。
「だよね」
4匹を空に追いつめるようにじわじわと膨らんでいく球雷。
その速度が一段階上がった。
茶色いマイケルも顔を引きつらせながら速度をあげて距離を取る。
球雷がさらに膨らんで目も開けていられないくらいに輝いた。
そこでさらに一段階、速度が上がる。
子ネコたちはぎりぎりまで高く昇り、
「限界だよぉー!」
「広がれー!」
果実のマイケルと虚空のマイケルはそれぞれ横に大きく散開し、灼熱のマイケルを後ろに乗せた茶色いマイケルも距離を測りながら横に広がった。広がって広がって広がって、着かず離れずの距離を保ちつつ広がって広がって広がって広がってそれから。
球雷は、さらに大きく膨らんだ。
「んんっ――!」
果実のマイケルの唸り声がした。思わず振り返った茶色いマイケルだったけど、開いた口からひねり出そうとした言葉は間に合わず光の中に包まれた。目をつむっても光しか見えず、すべての境界を曖昧に溶かしてしまう輝きの世界。そんな凶暴な明るさの中で茶色いマイケルは、
なにあれ……?
はっきりとは見えていない。
目を開けていたのか閉じていたのかすら確かじゃないんだから。
ただし影だった。影だというのは分かった。
影が、押しつぶすように光をねじ曲げたんだ。
粘土みたいにこねられ、ひきちぎられた球雷は、やがて光を失い影の中に溶けてなくなった。
目を開けると、うまく焦点の合わないぼんやりとした視界の中に、荒く不規則な息づかいだけが残っていた。
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