(139)11-8:ちっちゃい子ネコ

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 突如として飛び出した左手。傷をさらにえぐる爪の痛み。雪中から見上げる真赤な眼球。焼け爛れて肌の垂れ下がった顔。どれも震える理由には違いない。だけど怖気の元はそこじゃなかった。

 このネコは、あの道から落ちたはず。なのになんで。そもそもここは――。

 鏡をのぞいていたら目の端から寄生虫がにゅるりと頭を出していた。そんな光景が頭に浮かんだ。

 茶色いマイケルは、入り込んだ異物のおぞましさに凄絶な金切り声を喚き散らした。降りしきる雪が片っ端から音を消していく。

 もしかすると周辺の雪の下にはびっしりとこのネコが敷き詰められているのかもしれない。一歩下がればそこからまた手が出てくるんじゃないか。もし倒れでもしたらどうなるか。恐怖が妄想を連鎖させ、硬直したまま叫んでいた。

 その足元で、血のついた雪を頭を振って払いのけ、キャティは嗤った。はじけた右頬からは、臼歯どころかアゴの骨までがのぞいている。そこから錆鉄を擦るような声を不気味にかすれさせ、まあ落ち着きな、と話しかけてきた。

 坊や、まだ迷っているんだろう?

 足をつかんだ力の強さは変わらない。けれどなぜか傷の疼きは和らいだ。

 よしよし良い子だ、そのまま力を抜いときな。無理に引っ張らないほうがいいよ、裂けちまったら帰れないからねぇ。いいかい坊や、あんたはひとつ思い違いをしている。

 世界は救えない、とキャティは言った。

 もちろん、そんなこと言って騙そうとしてるんでしょうと強く反発したけれど、そうじゃないんだと彼女は頭をふった。

 話は最後までよく聞きな。ティベール・インゴッドを置けば世界は救われる、それは変わらない。

 あたしが言ってるのはねぇ、分銅を置かなかった場合のことさ。今回の解決を見送って、次回のレースに出場し、神らをたしなめた上で特別賞も得る。と、そういう話だっただろう? あの兄弟ネコの力を借りてねぇ。

 それが間違いなのさ。

 よく考えてごらんな。あわあわの大渦を止めるのに必要な条件はなんだった? まず、雷雲の神の裏切りを大空の神たちに知らしめること。その上で後悔する前に後悔させることだったろう。そう、雷雲の神に行動を起こさせる必要があるのさ。

 だけどあの神が次回のレースで動くと思うかい? あり得ないねぇ。断言できる。

 足りない力を補うすべがない。細神たちを変換する施設が壊れちまったからねぇ、その状態で上位の神々に挑みはしない。特別慎重なあの神は、“その時”がくるまでじっと待つさ。いくら挑発しても、餌をちらつかせても無駄なこと。つまり、どんなに意気込んだところで、あわあわの大渦は止まらない。世界は救えないのさ。

 雪は茶色の頬をなでて落ちていく。

 さて、道は2つある。

 1つ目は、分銅を置いて世界を救い、記憶を失ってでも母ネコのもとに帰る道。

 2つ目は、分銅を置かず世界を救いもせず、この場所に留まって、母ネコのもとには帰らない道。

 坊やのとる道はどっちだろうね。

 そうさ、決まってる。置いたほうがいい。ティベール・インゴッドを秤に置いて、すべてをここで終わらせないといけないのさ。

 どうだ、迷いは晴れたかい、と問いかけるキャティ。笑っているように見えるのは破れた頬からのぞく牙のせいだろう。真赤に充血した目は真剣だった。

 茶色いマイケルは話の中身を反芻し、何度も噛み直してから黙って頷いたよ。今よりも悪くなるのなら、ここに残る意味はないからだ。

 理解できたようだね。あたしの話は役に立っただろう。

 するとキャティは、だけどねぇ、と言って、頭を反らすようにして振り返った。その先には秘密基地がある。雪に埋もれた子ネコがこちらを見ていた。

 坊や、あんたはそれでも帰らないよ。

 とたんに悪寒が働いた。全身の毛を逆立てて、何をするつもりなの、と歯を剥いて睨みつける。けれど彼女はただ嗤ってこちらを向いた。

 気づいてるかい? 坊やは頭が良くなっているんだよ。

 時間稼ぎの気配を感じた茶色いマイケルは、突き立てられた爪に向かって身体をひねった。さらに深く刺さる痛みとともに、キャティの力が少し緩む。

 神との戦いで、芯を共鳴させていただろう? その影響さ。“考え方の感覚”ってやつが残っているんだろうねぇ。あの利口な坊やたちと同じように頭を使えている。

 離して、離して、と言いながら茶色いマイケルは爪に向かって足をひねらせる。キャティは逆に、爪が深く刺さりすぎないように、少しずつ手の力を抜いていた。

 分かってたんだろう?

 何のことだとは尋ねずに、爪へ爪へと足を押し付ける。

 ここに残っても、世界は救えないし願いも叶えられないってことをだよ。

 知ってたら迷うもんか!

 大量の息が一瞬、視界をまっしろに染めあげた。

 本当にそうかい?

 当たり前だよ!

 すかさず言い放つ茶色の顔を、キャティはしげしげと眺めていた。追いつめた獲物の巣でものぞくような、ぬらりと光る上目遣いが子ネコを怯ませる。そのあとで、へぇそれはそれは、とわざとらしく相づちをうって、こう言ったんだ。

 これだけ逃げてきたのにぃ?

 雪がサッと背中を滑り落ちた。全身の血が抜けてしまったのかと思うほど身体が冷たくなった。え、と口にするのがやっとだった。

 ヒッヒッヒ。おやおや、とぼけるのまで上手くなるとは。まあ、もともと資質があったからねぇ。

 その声がひどく癇に障り、思わず叫び声をあげていた。

 ボ、ボクたちの冒険をバカにするな!

 足がずむずむと雪に沈みはじめる。つかまれた足はびくともせず、上半身すらうまく動かせない。

 あたしはねぇ、なにも坊やたちの頑張りを否定してるわけじゃないんだ。あんたたちはよく頑張った。それは間違いないんだろうさ。ただ、すべてが口実だったって言ってるんだよ。

 あんたのね。

 キャティの目は嗤わない。

 いよいよ身体が固まって動かなくなってきた。体中の細い血管が凍りついてしまったのかもしれない。どくんどくんと重い脈動だけが聞こえてきていた。雪はどんどん足を飲み込んでいく。

 坊やはねぇ、見ていたくなかったんだ。

 キャティは優しい声で言う。雪がいっそう降り出した。

 そりゃあ不安な毎日だったろうさ。

 一昨日、聞こえていた声に返事がなくなり、昨日見えていたものにつまづいて、今日は昨日のことを忘れてる。じゃあ明日は? 明後日は? 明々後日は? こんな毎日の続いた先で、いつかは自分も忘れられてしまうんじゃないかって、焦りがいつも頭をよぎったろう? 

 まともでいられるものか。

 どうして? どうして? って、口を開いてもいないのに毎晩、暗闇の中から自分の声が聞こえてくるんだ、いつはちきれちまってもおかしかないよ。

 つらかったろう。たまらなかったろうねぇ。

 だから逃げ出したんだ。必死で言い訳を見つけて、何も言わずに飛び出して、手紙だって直接は書いてないはずさ。

 なんでそんなことまで――。

 わかるさ。わかるんだよ。

 自分のことなんて、もうとっくに忘れられてしまっているかもしれない、心配すらされてないかもしれないと思うと、手が震えて仕方なかったろう。何度も紙をくしゃくしゃに丸めて捨てたんじゃないかい? 考えたくなくて、遠く遠くへと離れていって、気を紛らわせるように誰かの話に首をつっこんで。そしてついにはこんな、世界の裏側まで来ちまって。そうまでしてもまだ目を逸らし足りず、こんなところに閉じこもってる。

 あんたはねぇ、そういう子ネコなのさ。

 とっても弱くて情けない、逃げ続けていることからも目を背けて逃げるくらい、本当に、どうしょうもなくちっちゃい子ネコなんだよ。

 茶色いマイケルは動けない。

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