(126)あわあわの幕間3:輝く白毛の民 ケマール② パンガー・タッシデルミア

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 ケマールの息子ネコであるチュルクは、幼い頃から母をよく助け、目端の効く良い子ネコだった。

 食事の支度などを見ていればよくわかる。次に何をしなさいと言わずとも、母ネコの視線や日々の習慣から先回りをして動き、困りごとに直面したとみれば、

「ボクがやりましょう」

 ニコリと笑って手を差し伸べた。また、父ネコの仕事を自ら学ぼうとする旺盛な好奇心も持っていて、

「ボクはお父さんネコのような立派な奉納官ネコになりたいです。奉納を怖れるネコにその行為の尊さを説き、恐れから解き放ってあげられるような、心優しい奉納官に」

 などと言う。チュルクには普通のネコでは分からない内面のやり取りが、はっきりと見えていたのだ。

 もっともケマール自身は奉納の儀を行うネコに対し、恐れをとり払おうなどとは考えておらず、自身の経験を伝えているだけなので多少こそばゆくはある。だからといって、「周りからはそのようにも見えるのだな」と、息子の視点の非凡さを否定もしなかった。

 なんと聡明な息子ネコか。親ネコの欲目かもしれないが、この子ネコはいずれ俺の跡を継いで民ネコたちをまとめてくれるだろう。ふふ、出来れば私もこのような主に導いてもらいたかった。

 砂漠での狩りも才能があり、よく仕留めた。しかし仕留めることばかりに囚われず、道具の手入れの重要さを真から理解し怠らないのだから、チュルクが周囲のネコたちから神童ネコと呼ばれることを、ケマールも「謙遜は嫌味になるな」と、否定することもなかった。

 それになにより白毛だ。

 チュルクの白毛は、少ないながら虎のように全身に広がっており、見るものをひきつけた。

 ケマールは今まで、ただそこに居るだけで浮き上がって見えるネコというものを見たことがなかったので、白毛に対する価値基準が大きく揺らいだのも事実だった。このことを法官のタプファラハトに相談すべきかどうか悩んだほどだ。結局、言いはしなかったのだが。

 ある日のことである。

 そのタプファラハトが今すぐ息子ネコを奉納しろと言ってきた。

「さる高貴なお方がお忍びで視察されてな、その時にお前の息子ネコをお見かけになり、いたくお気に召されたそうだ! 私も見たがなるほど、アレには今までのどのパンガーとも違う美しさがある」

 パンガーというのは、ケマールたち『輝く白毛の民』の奉納物のこと。帝国民ネコはこの、体から切り離されて動かなくなったものをそう呼んでいた。とはいえ、いわば商品名のようなものなのだからケマールたちの前で使うことは珍しい。タプファラハトの興奮が伺える。

 一方ケマールは淡々とした口調で、

「畏まりました。タプファラハト様。して、息子にはどの部位を奉納させましょうか」

 と話を進めた。たしかに、成ネコになるより先に奉納させられることは初めてでケマールも驚いた。しかしそれが何だというのだ。儀式が早まっただけでしかない。

 これからは親子ネコ3匹、『わが偉大なる祖国、サンド・アグリッシア大帝国』の民ネコとしての、安寧の日々が待っている。そう思えば驚きよりも先に、心の安らぎを感じたほどだ。

 しかし、続くタプファラハトの言葉がケマールの心を激しくかき乱した。

「何を言うておるのだケマール。部位? 普通の奉納ではないのだぞ、これは。ははぁ、まだわかっておらんようだな。しかし無理もない。とても縁遠いと思っておったに違いないのだから」

 よかろう、とタプファラハトは腕を組んで鷹揚にうなづくと、

「パンガー・タッシデルミアだ」

 と言った。目の前に大きな鹿を差し出された飢えた狼のような顔をしていた。ケマールは総毛立つのを感じた。

「チュルクはパンガー・タッシデルミアとなるのだケマール! 特上だぞ! 全身剥製だ! お前の息子は未来永劫、その美しい白毛を保ったまま、鑑賞していただけるのだ!」

 腹に入った力が声を漏らした。その驚き様を見てタプファラハトは「そうだろう、そうだろう」と満面の笑みをさらに濃くする。きっと今だけは、ケマールが動きを止めたままでいたとしても、その笑顔は崩れないにちがいない。

 だが、すぐに動いた。

「そ、それではすぐにでも支度を始めなければなりませんね。毛並みを整え、最も見栄えのする衣装を選びませんと」

「ハッハッハ、おかしなことを言うやつだ。なんのための全身剥製か考えれば分かるだろう、服など必要ない。さてはケマール、驚きでいつものように頭が回っておらんな?」

「……おっしゃる通りかもしれません。何せこんな……名誉は今までに」

「よい、よい! 私とて生きたうちにこれほどの栄誉に預かれようとは夢にも思わなかったのだからな! ではあとの事は任せよう。親子ネコとして最後の語らいも許されておるから、今夜は存分に一緒の時を過ごすといい」

「はっ。お心遣いありがたく」

 その返事にひとつ「うん」とうなづき、タプファラハトはそのまるまると肥えた身体をくるりと翻した。満足そうに遠ざかっていく背中。だがそこでふと、

「そうそう」

 と底冷えのする声が投げかけられる。

「お前のことは誰よりも理解しているつもりだが、ケマール」

 タプファラハトは振り返らずに言う。

「くれぐれも妙な気を起こすではないぞ?」

「妙な気とおっしゃいますと……?」

 心底わからないというケマールの声。

 それを聞いて満足したらしい、法官ネコは「いや、気にするな」と再び上機嫌になって歩き出した。その姿が完全に見えなくなったのを確認するとすぐ、ケマールは駆け出した。

 ばかなっ、パンガー・タッシデルミアだと……!?

 家に飛び込むと妻ネコのエイファが手元の刺繍布から目を離し、

「どうしたのですかケマールさん。そんなに怖い顔をして」

 と心配そうな顔を向けてくる。ケマールは「しまった」と表情を取り繕い、息を整えるふりをして、

「いやすまないエイファ。急いで帰ってきたものでついしかめ面になってしまったらしい。それよりもチュルクは? もう帰っているのか?」

「いいえ、今日はわたしたちに美味しいサソリ料理を振る舞うからと張り切って狩りにいきましたからね。でももうすぐ帰って来ると思いますよ。楽しみですね」

「……あぁ、チュルクの料理は美味いからな。もちろん君の次にだが」

 そう笑いかけた顔がぎこちなかったのかもしれない。エイファは「なにがあったのでしょう」と不安げに尋ね、ケマールはその追求する目を誤魔化すことは出来なかった。

「息子が……チュルクが……全身剥製として宮殿に奉納されることになった!」

 ケマールの声は自然と大きくなっていた。

「パンガー・タッシデルミアだ! 特上だぞ! この上ない名誉だ!」

 自分はどんな顔をしているだろうかという思いで、自らの喜びに溢れた声を聴くケマール。精一杯の演技はしたつもりだった。

 しかしエイファは一瞬、砂漠の真ん中で水を失ったような顔をして、それから、

「あ……ああ……ああああ!」

 顔を覆って泣き出してしまった。

「エイファ……」

 予想していたとはいえ、愛する妻の悲痛な叫びにケマールは手を差し伸べようとしたまま固まってしまった。

「あんまりです……あんまりです……!」

 見れば刺繍布に血が広がっていた。と、そこへ、

「お母さんネコ!」

 とチュルクが飛び込んできた。持っていた虫かごを放り投げて母ネコのもとに膝を擦るように駆け寄ると、顔を覆ったその手を開かせ、血のついた布と刺繍針とをとって涙を拭ってやった。そんな息子ネコにエイファは、

「ああ、チュルク……チュルク!」

 と相貌をぼろぼろにしながらしがみつく。困惑したままの息子ネコは、ケマールに「一体何が」という視線を投げかけ説明を懇願した。

 ケマールはできる限り声の喜色を取り戻しながら、チュルクにも奉納のことを伝えた。いつものように奉納の栄誉を強調する。すると息子ネコはハッとした顔になり、

「……泣かないでください、お母さんネコ」

 と、泣き崩れたエイファの頭を抱きかかえた。ケマールはその姿を見て歯を食いしばりながら、

「チュルク、エイファに……お母さんネコに、今のお前の気持ちを正直に話してあげなさい」

 と優しく優しく言った。息子ネコは覚悟を決めたネコらしく静かに「はい」と言い、

「ボクの……正直な気持ちは……」

 しかし、やはりというかためらいはあるらしい。チュルクはちらりとケマールを見上げ、返ってきたうなづきにうなづきで返すと大きく息を吸い込み、

「……ボクはもっと、お父さんネコやお母さんネコと一緒にいたかったです。もっとお母さんネコのお手伝いをして、お父さんネコから狩りを教わり、立派な奉納官ネコになれるよう、たくさんたくさん努力をしたかった」

 母ネコの頭がさらに、チュルクの胸の中に沈んでゆく。

「どうか、お母さんネコ。どうか悲しまないで下さい。ボクは価値が無いと捨てられるわけではないのです。お父さんネコもああして喜んで下さっているではありませんか。それこそがボクの価値なのでしょう。認められたのです、あの最高の奉納官ネコであるお父さんネコに。これを喜ばずにいられましょうか。ね、お母さんネコ」

 チュルクはサンド・アグリッシア大帝国宮殿の大広間にある、壮麗な時計の右側に飾り付けられた。

 その周りに並べられている全身剥製たちはどれも真っ白だというのに、その1匹、チュルクだけが茶色地である。

「にもかかわらずこの目立ちよう。さすが次期帝国皇帝陛下、ピマイの名を継ぐお方、見ているものが我々凡猫とは違いますな」

「なに、数多くの美しきパンガーを見てきたからな、良いものは自然とこの目に飛び込んでくるのだ。お前、なんと言ったか」

「は、私、タプファラハトと申しまする」

「うむ。この度は大変良いものを奉じてくれた。褒美は法官長ネコに何なりと申せ。それから……」

 時の皇帝ピマイ1世の長子は、大広間の端、赤い絨毯の外に頭をついてひざまずくケマール夫婦ネコに、幼らしい支配者の顔を向けた。

「お前たちの働きは聞いている。良いパンガーを育ててくれた。しかし奉納官ネコであるならばもう少し審美眼を磨かねばな。私が気づかねばこのパンガーはまたたく間に劣化してしまうところであったぞ。全く、近くにいるというのに。いや、近くにいるからこそか……。おっといかんいかん。小言を言おうと思ったわけではないのだ。お前たちにも何か褒美をやろうと思っていてな……そうだな、よし! こういうのはどうだろうか」

 ケマールたちに与えられたのは宮殿に来て、飾られた息子ネコをいつでも見てもいいという許可だった。法官ネコたちでさえそうそう立ち入ることのできない宮殿への許可。それにはタプファラハトも目を丸くして「そのような……」と言いかけ口を噤んだ。

 何者も逆らうことは許されない。

 ケマールは無言で額を床にこすり続け、耳を威勢よく振って感謝とした。

「良かったではないか」

 帰り際に聞いたタプファラハトの声はどこか冷めていて、ケマールは顔中の傷が疼くのを感じた。

 エイファは何も喋らない。

 そんな静かな2匹とともに歩みながら、ケマールの心の中では、未だかつて感じたことのない想いが渦巻いていた。

 二度とくるものかっ……!

 心の声が、内側から鼓膜を破ろうとする。

 二度と来るものか。あぁ……こんな思いをするなどと思ってもみなかった。あれは良い息子ネコだった。俺にはもったいないくらい出来のいい息子ネコだった。本当に良い息子ネコだったのだ。

 なのに。

 眉間にシワを寄せて目をつむる。

 なぜ俺ではなかったのだ。

 俺だったら、心の底から喜び、もっと良い剥製になれただろうに。

 王子に認められたのだぞ……? どこぞの豪商ネコでなく、没落寸前の貴族ネコでもなく、『わが偉大なる祖国、サンド・アグリッシア大帝国』の王子ネコ、この世界で2番目に尊いお方の、その目にとまり、うっとりとした眼差しまで向けられていた。だというのにだ。

 口から出てきた言葉が「一緒にいたかったです」だと? 我が息子ネコながら何という侮辱。『輝く白毛の民』を侮辱するにもほどがある。まったく、教育が足りなかった……。

 ケマールはエイファのうなだれた頭と耳とに目をやった。

 しかしどうしたというのだエイファまで。悔し涙かと思えば、まさか本当に悲しんでいるのではあるまいな。

 栄誉だぞ……?

 俺たちの住まう法官区の、しかも我が家から特上の価値を殿下に奉納できたのだから普通は……。

 ケマールは自らの右手が震えていることに気がついた。手首から先の無い、奉納を終えた右手。震えている。

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