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目を丸くした灼熱のマイケル。その隣りにはアゴに手を当てる虚空のマイケルの姿もあった。
大昔のネコの姿。これが。
茶色いマイケルはももの上にいる雪雲ネコさまの頭から背中にかけてをゆっくりと、しっかりと撫でていった。小さな頭。柔らかい耳。細い首筋、しなやかな背骨。表面はひんやりとしているのに、奥には確かな温かみがある。
雪雲ネコさまは子ネコのほうを向いて小さくうなずき、
『ずっとずっと昔の猫です』
と教えてくれたよ。
言葉はもっていなかったという。仕事は縄張りの見回りくらいで、昼寝と散歩を繰り返す気ままな毎日だったらしい。今よりもずっとのんびりとした暮らしだ。
「決して強くはなかったらしい。他の動物に比べて身体は小さいし線も細い。相手が強いとわかれば全速力で逃げていく。これだけ聞けばずいぶん情けなく思えるだろう」
たしかにな、と腕を組んだ灼熱のマイケルにマルティンさんはこう問いかける。
「けれど神さまはその姿を好んで模した。なぜだか分かるかい?」
子ネコたちを見回し、うなずくように瞬きをする。
『完全な個』、と彼は言った。
「彼らは孤立を恐れなかった。縄張り争いで負け、どんなに力を示されたとしても従わないときには従わない。従うくらいならみっともなく逃げ回り、泥に塗れることも厭わない。それでいて気に入った相手がいたなら仲間をつくる柔軟さも持っていた」
マルティンさんは瞳に憧れを湛えていた。
「彼らは“個”であり続けたんだ。見ていた道はきっとまっすぐだ。見据えた一本道は、どんな困難に差し掛かろうと、どんなに曲がりくねろうとも、一本の道だったのだ」
マルティンさんの右隣、岩のように動かずボーガンを構えていたケマールさんが、耳を動かした。
「揺るぎない『個』の象徴。大昔の詩人はかつてのネコをそう謳ったらしい」
なぜだろう。
ふと、雪の中に埋もれた感覚がぽわっと浮かぶ。
周りの冷たさに、内側にある熱や重みが浮き彫りになってきて、どこからどこまでが自分なのか、自分の形、自分の小ささが、はっきりとしてくるあの感覚。
それは秘密基地でよく感じることでもある。
雪の上に1匹分のレジャーシートを広げて、寝っ転がって冬の冷気に包まれる。
心細さはある。寒くて、冷たくて、早く帰って暖炉の火にあたりながらお母さんネコの作った出来立てほかほかのカリカリパイを食べたいなとも思う。だけどツンと刺すような風が吹くたび、大粒の雪が鼻のてっぺんに乗ってゆっくりと溶けていくのを感じるごとに、目が開いていく。ぱっちりと前を見据えていられる。
その感覚と、マルティンさんの話してくれた『猫の一本道』から浮かぶイメージが重なって見えた気がして、茶色いマイケルは少しの間ぼうっとしていたよ――。
見れば、マルティンさんは雪雲ネコさまを眺めていた。きっと、あの神ネコさまから聞いた話なんだろう。
「まったく大したものだとは思わないかい。何にもすがらず、常に自分であり続けられる存在があるなんて」
視線が合うと満身創痍の成ネコは苦笑した。
「かたや私は。差し出された事実に踊らされ、信じるに値するものを疑ってしまい、結局信じ切れずに別の道を選んでしまった。これでは裏切りと変わりない。『裏切り者』と言われてどこか腑に落ちてしまうのは、きっとこういうところなのだろうね」
いつだって強くありたいと思っているのに、それでも恐れてしまう。
包帯の縁が湿って、わずかに色を濃くしていた。
信じることを怖いと思ってしまう。それは茶色いマイケルにも覚えのあることだった。子ネコは頭の上の風ネコさまに手をのばし、柔らかい皮をつまむようにワシワシとマッサージをした。神さまはネコみたいにゴロゴロとのどを鳴らしたよ。
「君たちはいつから一緒にいるんだい? こんなところにまで連れ立って来ているんだ、最近知り合ったというわけではないのだろう? 幼なじみネコかネコ学校で」
「ワシと茶色は3ヶ月くらいか」
「みじかっ! 付き合い短いな。最近じゃないか」
「オイラはぁ2ヵ月くらいでぇ」
「俺に至っては1ヵ月に満たないな」
「いやはや……もっと小さな頃から一緒かと思ったが」
確かめるようにうなずくマルティンさん。
「そうだな。どれだけ時間をかけても性格の合わない者はいる。その逆もまた然り。私も知っていたはずなんだ。一言二言話しただけでオモシロイと思える者か……なるほどこれは特別で貴重だな。大切にしなければならなかった」
彼の頭の中の大空ネコさまはきっと笑っていたはずだ。そんな表情だった。だから子ネコはこう言った。
「今からでも遅くはないんじゃない?」
マルティンさんはここにいて、大空ネコさまは探してる。だとしたら、あとは単純なことじゃないのかな。少なくとも難しいことだとは思えなかったんだ。だけど、
「ありがとう茶色くん。だがね……」
フフッと笑い、
「……信頼とはなんなのだろうな。目を背けるのはひどく容易いのに、立ち向かうためには信じられないほどのエネルギーが必要だ。なにかコツでもあればいいのだが、私にはやはり」
向けられた自嘲交じりの顔はひどく痛々しい。
子ネコは軽々しく言ってしまったことをちょっぴり恥ずかしいと思ったよ。
それでも。大空ネコさまとは仲直りしてほしい。そうであって欲しい。もしできるのなら何か力になってあげられることはないだろうか。
そんなふうに考えていると、
「どこかで聞いた話だな」
虚空のマイケルがフッと笑う。
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