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風ネコさまは宙をしなやかに歩いて寄ってきて茶色いマイケルの右肩に跳び乗った。樹洞の入り口からさしこむ光が少しだけ明るくなった気がしたよ。
暗がりで神さまの悪口をわめき立てていたマルティンさんも、その神さまからの同意と聞いて顔をもち上げる。わめいていたのは気が高ぶっていただけだろう。風ネコさまが話を合わせれば落ち着くはずだ。息苦しい緊張をきっと解いてくれるはず。
風ネコさま、よろしく。
『ネコはオモチャだなー』
別の緊張が加わった。
マルティンさんの左隣、灼熱のマイケルがしっぽの動きを止めて顔をしかめる。みるみる毛が膨れていって身体はもう一回り以上大きい。
『力に差がありすぎんだからよー、対等と思ってるわけねーだろー。道具みてーなもんじゃねーの?』
虚空のマイケルと果実のマイケルも動きを止めた。入り口からの光が強くさし、にっこり穏やかな顔の影がやけに濃い。
『使うだけ使ったらよー後はどうなってもいーんだよなー。興味がなくなりゃー手放すし、まだ使えそーならとっとく。道具ってそーゆーもんじゃねーのかー?』
「ちょ、ちょっ……」
茶色いマイケルの心臓は追い立てられるように音をたてていた。
『きまぐれで捨てたり拾ったりすることはあると思うぞー。可愛がることもあるだろーしなー。でもよー可愛いってのは下に見てんだよー。自分を食っちまうよーなヤツを前にしてカワイーとは言わねーだろー』
ひいい!
風ネコさまは小声で「まー特別な理由でもねーかぎりはよー」と付け足した。だけどもう遅い。
肩の上、後ろ足を使って耳の裏をカリカリと掻きむしる風ネコさま。そこに子ネコたちからのトゲトゲしい視線が突き刺さる。『びきびきびき』とシワの寄る音がしてきそうだ。そんな子ネコたちに向けて唸っているのは吹雪ネコさまだろう。あまりにも鋭い視線を入り口の方から感じて、茶色いマイケルは後頭部の毛根が死滅するんじゃないかと思ったよ。
ハァ、というため息はマルティンさんだ。耳障りに思ったのか、ため息を聞いた小さな神ネコさまたちがまた唸る。
「……これで分かっただろう。ネコは道具。信用すると利用される。神さまは利用するのが目的なのだよ、近づかないのが正解だ」
『そーだぞー、気をつけろよー』
「挙句の果てにはボロ雑巾として処分されるのだからな」
『まーいらねーもんは捨てるよなー』
樹洞にうず巻く怒りのすべてが茶色いマイケルに集まってくる。見えない何かがピュンピュン飛びまわっているようで、子ネコの中身はブルブルと震えていたよ。電子レンジに入れられた卵みたいに殻が弾け飛びそうだった。
色々と言いたい事はあったんだ。成ネコと風の神さまなんだから、空気くらいは読んでよねってさ。ただそれを口にはできなかった。勢いで言ってしまうには、マルティンさんはあまりに遠くを見ていたんだ。
遠い遠い昔を見るような、寂しげな瞳をしていた。
――なぜか、止まった時間の中で手をふる風ネコさまの姿がチラリと浮かんだよ。
茶色いマイケルは少しだけ冷静になった。
「大空ネコさまと、何があったの?」
するとみんなの興味は潰れたシルクハットへと移っていった。
「以前話したことの他には特別なことは何もないさ。『助けない』と言われたので私は身を案じて逃げだした。そうしたら追手がやって来て『裏切り者』と呼ばれた」
それだけのことだよ、とマルティンさんは口の端を歪めて笑う。顔の半分は幅広のガーゼで覆われていて、鼻の上で巻いた包帯がぐいっと上にズレた。
「でもさ、逃げたって言っても身を守るためだったんだよね? なのに『裏切り者』っていうのはおかしくないかな。何か他に……」
「残念ながらそれ以上のやり取りはなかったんだ。大空の神の、あの軽い調子で『まあ頑張ってよ』と言われて以降は、化け物から逃げることに必死だったからね」
宿場町を出て、金属の霧をくぐり、そして銀色の森を走ってきたマルティンさんは奇跡的に障害らしい障害に出くわすことはなかったという。だけど幸運はまとめて不運へとひっくり返された。霧の神さまと礫の神さまが、顔を見るなり暴力を振るってきたんだ。茶色いマイケルたちが通りかかるほんの少し前のことだった。
「誰も彼も同じだ」
吐き捨てるような声だ。痛々しい手当の跡を合わせて見れば言葉もない。神さまは理不尽で横暴。覚えもある。この成ネコの言うとおりだとも思ったよ。だけど……。
『でもよー、たぶんちげーぞー?』
たぶんと言いながら確信めいた声の風ネコさまは、茶色いマイケルの肩から頭へと跳び移る。
「ちがうとは?」
鼻で笑って尋ねるマルティンさん。
『大空のやつがオマエのことオモチャと思ってんならよー、逃げたら放っとくぞー。追いかけねーし追手なんてありえねー。あいつテキトーだから『いーからいーから』っつって、その辺のやつにぺちゃくちゃ喋りかけてるだろー。なのにほら、あの、雲になったネコも言ってたろー、このネコを探しに来たってよー』
おやと思ったのは、なんだかムキになってるように聞こえたからだった。
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