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「あの、ケマールさん。その……構えなくても大丈夫だと思うんだけど……」
樹洞の最奥(さいおう)。
わずかしか光の届かない暗がりは思ったよりも明るい。壁に背を預けて座っているケマールさんの武器『白骨のボーガン』が、ほのかに白く輝いている。説得に来た茶色いマイケルがその鏃(やじり)の先へと目を向けると、
「みゃあ」
ずんぐりと丸い獣、マークィーはひと鳴きして子ネコに振り向いた。びきびきびきと、顔をシワだらけにして怒る様子はなく、それどころかそっと手を出せばスンスン匂いを嗅いでペロリと舐めるほど懐いている。他のマークィーよりもずいぶん小さくて、成ネコよりは少し大きいというくらいだし危なくはないはずだ。
だからもう、ボーガンを下ろして欲しいんだけど……
「獣は獣だ。俺たちはネコでありこいつは獣。その立場は国によって昔から決められている。『わが偉大なる祖国、サンド・アグリッシア大帝国』でな。お前たちも散々襲われたのだから分かりそうなものだが」
かたくなだ。輝く武器はマークィーの動きに合わせてわずかに揺れた。
だめだ。ゆっくり休みたいのに落ち着けそうもない。
茶色いマイケルはどうしてこうなってしまったのだろうと考えて、マルティンさんを助けた直後のことを思い出す――
――銀色に染まった森の中、大樹の根本にぐったりと気絶したマルティンさんを灼熱のマイケルが背負って、さぁ先へ進もうかと前を向いた時だ。
びきびきびき
視線の先には憤怒の顔が並んでいた。焦げ茶色の毛を膨らませたマークィーが大樹と大樹との間に立っていて、その数は1匹、2匹、3匹、4匹、5匹……奥の暗がりを見ればさらにさらに増えていき、
『に、逃げろぉぉぉぉ!!』
雪崩ネコさまの掛け声でネコたちは一斉に駆け出した。オセロットに教えてもらった方法で対処するには数が多すぎる、すぐにくっさい『黒い靄』に身体を浸して臭いを上書きすると、樹上や幹の裏、うねる根っこの隙間に身を隠したよ。
潜伏は、走らなくていいから体力的には楽だけど、かわりに精神をゴリゴリ削られた。なにせ距離が距離だ、近すぎる。マークィーたちの怒りの吐息が耳のそばでずっと聞こえてたんだ。薄い茂みを隔ててすぐ向こうにある『ハァ……ハァ……』という息づかいからは、ネコ・グロテスクたちから感じたような怨みや憎しみが滲んでいて、生きた心地がしなかった。
こんな獣、とても相棒にできるなんて思えない。夢が一つ砕けて散っていく思いだったよ。
そんな中、
「今のうちに行くぞ」
樹上、銀色の葉の影に紛れていた灼熱のマイケルが声をひそめて呼びかける。森の中では、バラバラに動いていたマークィーたちがまとまり始め、「そっちはどうだ」「いやいなかった」「じゃああっちを探してみよう」とでも言うように群れで離れていくのが見えたんだ。獣たちの見ていない方向に進めば逃げられる。そう思った。
それが罠だった。
マークィーたちはわざと隙をつくって茶色いマイケルたちをおびき出したんだ。
隠れていた神ネコさまたちと合流した途端ミャァァァァァァァァァという甲高い鳴き声が響き渡った。背後で大勢のマークィーが振り返る気配がする。まずい。と思った時には地鳴りが聞こえてきたよ。見れば焦げ茶色の群れが木々をなぎ倒す勢いで、波をうって押し寄せてきていたんだ。
ああ、これは終わる。
あとは頭を抱えてうずくまるくらいしか思いつかなくなった。その時だ、ふと袖を引かれた。腰のあたりを見ればそこにいたのもマークィーで、これはいよいよ捕まったと思ったんだ。だけど、
「きゅうん」
小ぶりなマークィーは、噛みついていた袖ごと顔をねじり茂みの奥へと誘ってくる。茶色いマイケルはその瞳を見た一瞬で覚悟を決めた。
「こっちだよ!」
つぶらな瞳のずんぐり獣はすごい勢いで前を走ってくれた。茂みをかき分け、枝を弾いて折って吹き飛ばし、ネコたちに道を作ったんだ。
「どこか、隠れられる場所、あるかな」
息を切らしながら尋ねると、
「きゅふん」
と返ってきた。
「よし!」
「な、何がよしなんだよぉ」
「今のはいい音が混じってたんだ」
「ま、まじでぇ!?」
マークィーたちから追われはしたものの道案内がよかったのかな、息も絶え絶えになりながらこの樹の洞(うろ)までたどり着き、中に飛び込んでやり過ごしたっていうわけなんだ。これでやっと一息つけると、そう思ったところで、
「動くな。動けばお前たちのうち一番肥えたネコを仕留める」
果実のマイケルが命の危機にさらされた。
もちろん、中にいたケマールさんに茶色いマイケルが経緯を話すことで納得はしてもらえたんだけど、
「なっ、そいつはこの森の……!」
とマークィーの姿を見て矢を放とうとした。慌てて「絶対に襲わせないから」とお願いしまくった。理解も納得も投げ捨てて頭を下げた。だけどなぜかマークィーがケマールさんを気に入っちゃって……。休みたいけど気がかりで、子ネコたちはげっそりさ。まったく、何をするかわからないネコは手がかかる。
茶色いマイケルは、もしもの場合に備えて2匹のそばにいることにした。ケマールさんの正面でもこもこしているマークィーの、右隣に膝を抱えて座る。すると獣はすり寄ってきて、頭をすりつけるようにして寝息をたてた。
これなら少しは気を抜いてもいいかな。
そう思って瞬きをしたときふと目に入った。ボーガンの鏃が小刻みに震えている。しかも外套の、肩のあたりに影とは違う暗さがあったんだ。
「ケガをしているの?」
「皮を切っただけだ。大したことはない」
「果実、ケマールさんもお願い」
命を狙われたこともあって果実のマイケルの返事と足取りは重たかった。ただ、その傷を見ると、
「うわっ、結構ひどいよぉ。茶色、さっき拾ってきた当て木とってぇ。骨折れてるのに武器なんて構えちゃだめだってぇ」
テキパキと手当をはじめる。
「ケマールさんも急に襲われたの?」
マークィーの突撃は速くて強力だからね、いきなり飛んでこられたら避けるのは難しい。茶色いマイケルたちも運が良くなければ最初の一撃でこうなってかもしれないんだ。まさかなんにも手出ししていないのに襲ってくるなんて思わないもの。
「ああ。腹が減った気がして何かないものかと歩いていたら獣を見かけてな。こちらを見てもじっとしているだけだったので狩って食おうと射掛けたところ、想定以上に皮が厚く仕留め損ない、反撃されてしまった。猛獣と分かっていればやり方を変えたものを。まったく、狡猾な獣だ」
2匹の子ネコは顔を見合わせた。それから、
「ぐぅっ……!?」
果実のマイケルが力いっぱい包帯を巻いた。
手当が終わるとケマールさんは武器を構えなおした。マークィーはもう寝息を立てているからと言っても聞きはしない。寝返りすれば矢を放ちそうな目の鋭さで、この場所を離れたかったけれど身動きはとれそうもない。茶色いマイケルは精神的な疲れでドロっと溶けてしまいそうだった。
「ここはあれだな、前に案内してもらったあの神殿の中に似ているな」
「茶色の故郷にあるという美しい彫刻の話か」
そこへ灼熱と虚空が奥に来て、斜向(はすむか)いの壁に背をあずけて座る。仲間ネコたちの持ち込んだ空気にホッとする茶色いマイケルは、肩から力を抜いて、銀色の樹洞の中を改めてゆっくりと見渡した。
「ホントだ。なんとなく落ち着くなと思ってたんだけど、すっごくよく似てる」
無機質そうな銀色の空間は、静謐で冷たささえあるのにどこか温かい。それはスノウ・ハットの地下にある『氷の神殿』によく似ていた。
――氷の地下道。素晴らしい装飾の入口。ご先祖ネコさまの氷像。それを整然と見て回るネコたちの列。歌と踊りの間を通り抜ける頃には、翌日のシロップ祭りのことで頭がいっぱいになっている――。
思い浮かべるだけで楽しくなる場所だ。
「あふふ、ホームシックネコになっちゃったぁ? 子ネコだなぁ茶色はぁ」
「故郷を思い出して微笑むことの何が悪い。お前のように目の前のことにとらわれて放浪して太ってばかりいるネコには分からんかもしれんがな。この親ネコ不幸者め」
「他にも色々な風習があったのだろう? せっかくだ、俺たちにも聞かせてくれないか」
茶色いマイケルは、目の前にボーガンがあるのも忘れて生まれた街、スノウ・ハットのことを子ネコたちに話したよ。
ご先祖ネコさまの丘。家のお墓。そこからの景色。秘密基地。迷路街。雪と氷の祭典。
前にも話したことはあったけど、
「その秘密基地っていうのはさぁ、どういう意味があったんだろうねぇ」
とか、
「お口むにゃむにゃというのも不思議な慣習だ。なにか唱えているというのならわからなくもないが」
とか、
「ワシとしてはやはりあの神殿の入り口にある見事な装飾が気になるな。あれほど精緻なものは見たことがない。ネコに造ることの出来るものなのかと唸ったものだ」
なんて口々に言いながら、みんな興味深そうに聞いていた。ただし聞いていたのは子ネコたちだけじゃなかったらしい。
「あれ、泡雪ねこさま」
いつのまにか、立てた膝の下に子ユキヒョウが座っていた。「むっ」と声のする方をみれば灼熱のマイケルの足の上には淡雪ネコさまがいるし虚空のマイケルの肩と果実のマイケルの肩にはそれぞれコドコドたちが乗っている。最後に茶色いマイケルの肩に雪雲ネコさまが乗ってきて、なにやら楽しそうにしっぽをゆらゆらさせていた。
雪の話だからかな。みんな楽しそう。
「せっかくだからもっと詳しく話してやったらどうだ」
そうだねと言って氷の神殿の装飾の話をしていたら、クスクスと神ネコさまたちの笑い声が聞こえてきたよ。なにかおかしなこと言ったかなと思っていると、
『ごめんなさい。イヤな笑いに聞こえていたら』
神ネコフォルムの雪雲ネコさまが笑いをこらえて言った。そこへコドコドたちが『あのねー』とイタズラっぽく笑いながら割って入る。
『『作ったの、つらら(みぞれ)たちなんだよ!』』
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