◆◆◆
理想の私を雲に描いていく。
もくもくと広がる白いカンバスに漠然と。
たどたどしい筆致ではあったけれど、そこには確かに未来の私がいて、彼女は、満面に自信を湛えてこう言っていた。
――ここまで来られるかしら?
仕草のひとつひとつに品がある。よく通る声は嘆きの叫びでさえ美しい。剣舞も洗練されていて、その裏には役者ネコにしか見抜けない血の滲むような努力の跡がかすかに見えた。そして、どんなに怒って泣いて苦しんだとしても、最後には花咲く顔で微笑んで、観るものの心をつかんで決して離さない。
そんな私を雲に描いていく。
――今、あなたは何を持っている?
容姿は使える。声は何よりの武器になる。ならばもっと品格を。もっと動けるように。もっと細部にまで神経を研ぎ澄ませ――。
見据えるのは他の誰でもない私自身。
前に前にと、あの雲に向かって走っていく。
◆◆◆
「ずいぶん良くなったね、リーア」
ある日の稽古場。
円形野外劇場の隣にある最新式ホールに備え付けられたレッスン室で、壁一面の鏡に向かって動きの確認をしていたところ、演出家ネコが落とし物でも見つけたように寄ってきた。
「ありがとうございます」
鏡越しに答える息は少しだけあがっている。
「いやぁ良くなった。『べっこうネコ』の頃からしても見違えるほど良くなったよ。ただなぁ、良くはなっているんだけど、何だろうか。影が先を行くというか……何かが手の平からすり抜けていくような……あと少しで何か……」
「少しじゃないわ、まだまだよ。そうでしょうリーア」
渋面をつくる演出家ネコの言葉を制したのは、直ぐそばで稽古をしていたカルティアさんだ。そのキツい一言に、周りで練習していた若ネコたちが凍りつく。自分が言われたわけでもないのに、うわっと目を伏せていた。だけど私はそらさない。
「はい。またまだ足りません。もっともっと稽古が必要です」
すぐに鏡に向かおうとした。そんな私を見て演出家ネコは気負い過ぎていると思ったのかもしれない。
「しかしリーア、稽古のしすぎで調子を悪くしたら大変だ。君も今やうちの看板女優ネコの1匹なんだからね。息もあがってきているし少し休憩を挟んでからにしたら」
言いながらカルティアさんと私との間にさっと体を入れる。その向こうで彼女がクスリと笑っていた。私は2匹ともに感謝をしつつ、
「いいえだからこそです。あがった息は限界の証拠。だったら限界を越えるなら今がチャンスじゃないですか。私は今ここで、私を超えます!」
胸に手を当ててそう言った。
「時間があるなら是非ご指導を!」
気迫に押された、というよりも胸を叩かれ息を吹き返した様子の演出家ネコは、
「よし、そこまで言うならやってやろう。どんどんダメ出ししていくぞ泣きべそかくくらいにな!」
「はい! 演技でならいくらでも泣きますから!」
私は躍進の機会に恵めれていた。
ただ、演出家ネコも言っていた通り『漠然とした物足りなさ』は私にもあった。こうじゃない、こうでもないと、スッキリハマらないパズルにやきもきする日々が続く。
カルティアさんが華々しく舞台の中央で舞う一方、その眩しい世界の傍らではアルドも重厚な輝きを発していた。
有るべき自分をはっきりと捉えている瞳。
彼は『黒錆び』と呼ばれ、観客にも役者ネコたちにも畏怖されるほどの存在になってきている。
あの輝く瞳には何が映っているのだろう。
まだ一度も主役を演じたことのない私には分からない。派手な剣舞のある騎士役や、軽妙な合いの手を入れる従者に不満はない。だから主役にこだわるわけじゃないけれど、私に欠けた最後のピースは、主役の座にあるような気がしていた。
ならばそれを演じなければ。あの雲には届かない。
はやく!
はがゆさは噛み殺せるが、時は過ぎていくのだ。
◆◆◆
「カラバが引きこもって発狂してる!? 大変じゃない!」
稽古が終わったあとで、相変わらず「お疲れ」とタオルを渡してくれる赤サビネコがそう話してくれた。ただ、
「心配いらないって。あいつ、オリジナルの戯曲で名前を轟かすんだって意気込んでたから、現実とのギャップに苦しんでるだけでしょ。おととい様子見に行ったら晩メシご馳走してくれたよ。くそマズかったけどさ」
ということらしい。
野心に燃えるカラバの才能を認めつつグリューズがそんな冗談を言えるようになったのは、少し前に強面(こわもて)の役を演じた影響かもしれない。自分の殻を破るためにと一念発起したこのネコの顔には、すっかり自信が表れている。
今の彼は、ガッシリとしてきた身体と相変わらずの澄んだ瞳とが一風変わった魅力となって、脇役ながらファンネコも多いのだ。
「心配ないって言っても……それってつまり錯乱して作った料理を毎日、弱った身体に流し込んでるってことでしょ? 危険よ、カラバが死んじゃうわ!」
大げさだなぁリーアは。と言いつつも、料理の味を思い出してか、その顔が固まった。
「まずいかなぁ……?」
「せめてまともな物を食べさせてあげましょう!」
ただ、その日は見たいテレビ番組があったので翌々日に行くことにした。
そして翌々日。
私はグリューズに誘われた。
「リーア、カラバのところに行く前に君に見せたいものがあるんだ」
なんでも、一日がかりで倉庫の整理をしていたら面白いものを見つけたのだとか。
「円形野外劇場の地下が古代遺跡だっていう話は知ってるよね?」
「ええ。その上に王族があの劇場を立てたんでしょう? 見た目にはどっちも古いけど」
その地下に倉庫がある。
「その倉庫っていうのがさあ、歴代劇作家ネコたちの資料置き場なんだ。もちろん中にあるのは、その時その時に集めた資料。かなり古いものもあるけど保存状態はいいみたいでね」
と、差し出されたのは一冊の本だった。
「絵本?」
「そう。話の出来はいいとは言えないけどね。でも作者の視点で見ればおもしろい内容でさ」
手渡され、読み終わるとすぐに駆け足でカラバの家をたずねる。
「開けなさいカラバ入るわよっ! なにこれ汚っ!」
寮長ネコに「カラバがマズいんです!」と言って借りた合鍵で押し入ると、押し返すように立ちはだかるゴミの山。その奥から、
「な、なんだなんだ強盗ネコかやられてたまるかっ!」
とフライパンを振り回しながらカラバが飛び出してきた。1年くらい荒野をさまよい歩いた野良猫の顔をしている。彼は私だと気付かず「チェアァァァ!」と鉄の塊を振り下ろした。しかし「ていっ」と手首をひねると、
「ぐわぁ! 死ぬぅ!」
と大げさにひっくり返った。
「これで演技じゃないっていうんだから確かに発狂しているみたいね。可哀想に」
錯乱して襲いかかってきたカラバを一瞬で組み伏せた私は、彼が白目をむいて気絶しているあいだに部屋の掃除をしてあげた。
「よし、キレイに片付け出来ました!」
「……お前とは知らず、すまん」
スッキリぴかぴかに磨かれた床の上でカラバは謝り、しかしその目はグリューズを責めていた。
「そんな目で見ないの。グリューは心配して教えてくれたんだから。晩ごはんがマズかったって」
「それはただの悪口じゃないか!」
飛びかかってきそうな部屋の主を「まあまあ」となだめた私は、そこそこ落ち着いたところで、
「と言うわけでカラバ、助けてあげたんだから言うこと聞いてよね」
と、かなり理想に近い笑顔で丁寧にお願いをした。
「強盗ネコじゃなく押し売り猫だったか」
「失礼な。カラバにとってもいい話を持ってきたっていうのに」
そして絵本を差し出す。
「これで戯曲作ってちょうだい!」
「は?」
と言いつつも、戯曲という言葉に反応してか本を受け取ると素直に読み始めた。文字は少ない。けれど1ページ1ページじっくりと読んでいるところをみると、彼の頭の中では戯曲への変換が進んでいるのだろう。
最後のページから目を離し、硬い裏表紙をぱたりと閉じる。
「つまり、お前に合わせて作り変えろと言うわけだな? 断る。俺は特定の誰かを思い描いて作るようなことはしない! お前こそ身びいきで役を勝ち取ったなどと言われたくはないだろう!」
「おいカラバ! リーアにそんなっ」
さっと腕を伸ばしてグリューズを制すると、カラバも口を噤んだ。
「カラバの言うことはもっともよ。私だってイヤだわ、自分に合わせた登場動物を演じるなんて。私は私のすべてをもって、私じゃない誰かを演じたいの。飛び出したいの。だからそんな心配必要ないわ」
じゃあ何だ、と訝しがる顔に伝える。
「私はこの物語が気に入ったの。だけどこのままじゃ使えない。そうでしょ?」
「ああ。今の流行りはこうじゃない。話が盛り上がりに欠けるし演劇にするには場面転換が多すぎる。モタモタしているうちに観客は舟を漕ぐだろうな」
「それでも私が好きなのはこういう話」
「しかし流行を外すと見向きもされないぞ? 興行である以上、何度も足を運びたくなるものでないと。それをまず上に納得させる必要がある」
「そのために必要なのは?」
カラバは少しのあいだ目をつむってから、仕方ないと言うようにため息をつく。
「派手な立ち回りとメリハリの効いた展開だ。それと」
「カラバの中に描けているのならそれでいいわ。この平坦でちょっぴり冗長な物語を、見栄えのするシーンも加えて、現代的で、ふとした時に思い出してしまうような話に」
アナタが創造するの。
「この名無しの作者ネコの、その頭の中にあったであろう景色を、セリフを、声を、蘇らせてちょうだい」
私たちは、考えこむカラバに本を押し付けて帰った。帰りにグリューズが引き受けると思うかと尋ねてきたけど、私はそんな心配はいらないと言った。それはたった3日で証明された。
「できたぞ! 処女作にして最高傑作だ。やはりおれは天才ネコだった!」
稽古場にあらわれたカラバはそれだけ言い残すとバタリと倒れて動かなくなってしまう。
「カラバが死んだ!」
「ばか、気絶しているだけだ、ひどい衰弱だぞ」
「おい担架だ! 担架を持ってこい!」
その場が慌ただしくなる。
他のネコたちがカラバに気を取られる中、私は彼の手から原稿を抜きとって、両の手の平を合わせ祈るように、それを開いた。
グリューズも後ろから覗き込む。
「これよ、これだわ!」なんてつまらないセリフは出てこない。
頭がスッと透明になって、ただ身が震えた。
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