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フレイルが『ピサトの残り火』に襲われたのは、ハチミツとコハクが久しぶりに帰ってきた晩のことだった。
日も暮れる間際、『治安維持ネコ部隊』の教育課程を終えて帰ってきた2匹をねぎらうために、自分では飲まないマタタビ酒を買いに行ったフレイル。しかし、完全に日が落ちるまで待っても帰って来ない。「妙だな」としっぽを立てたハチミツは、寝ていたコハクを叩き起こして近所のマタタビ屋へと向かった。
『ネコネコ大戦』以前の『メトロ・ガルダボルド』は、友好国『リーベ・レガリア』からもたらされる防犯システムのおかげで、夜であっても昼のような賑わいを享受できていた。だがそれも今は昔の話なのだ。裏切られ、憎しみ合いの果てに、どちらも負けのような終戦を迎えてからというもの、防犯システムの恩恵はなく、夜は、あたり前に暗い。
夜目の利くネコであっても、星のない新月の夜、動きの止まっているものを見つけるとなると困難を極めるのだ。いつもであれば。
「じいさん!」
ハチミツが声を浴びせた。それはフレイルとは似ても似つかない若いネコの背中だ。しかも複数いる。いかにもネコの目を盗んでいそうな暗がりに潜み、甘い砂糖にたかったアリのように何かに群がっている、そんなネコたちの背中。ただでさえ怪しいというのに、厳しい訓練を終えたばかりでまだ鋭く神経をとがらせていた2匹が見逃すはずも無い。
2匹は相手が身構える前に蹴りかかり、有無を言わさず手足の骨を折っていった。もしも間違っていたらなどとはネコの柔毛ほども考えず、容赦なく地面に叩き伏せていく。10匹以上いたネコたちの全てを行動不能にした。
荒く息をする兄弟ネコは闇の中で、
「……ハチミツ、コハク」
と自分たちを呼ぶ声を耳にして、そちらを向いた。よく知ったネコの聞きなれない細い声。季節は初夏だ。寒さなんてみじんも感じない。なのに声は揺れている。自分たちの手も。指の先まで。
「いいか、よく聞け。……けっして、うらむなよ。うらみで拳を振るうんじゃない。うらみで頭を回すんじゃ――」
生ぬるい咳。ねっとりとした音が、途切れ途切れに吐き出される。
サビネコ兄弟は口を挟んだりはしなかった。その一言一句をすくい上げるように耳を傾けた。たとえ今、その意味を理解できる状態になかったとしても、せめて脳には焼きつけておこうとして。
「……溢れさせるんだ。与えて与えて、心を溢れさせろ。たっぷりと満たしてやれ。そのためにも」
中途半端に言葉は途切れ、吐きっぱなしの息もまた、微かに吹いた生ぬるい風の中に溶けていき、いつしか消えていた。残ったのは深い闇。そこにあるはずの祖父ネコだったものは、2匹の目に映らない。
***
火葬場の待合室。
備え付けの狭い給湯室で2匹は、客の飲み終えたコップを洗っていた。
「あんなの見せられて恨むなって、無理あるよね」
「まったくだぜ。猫体模型かと思っちまった。つーかあれでよく喋れたよな。暗かったし、もしかして幽霊ネコだったとか……」
「ハハッ、兄ちゃんそういうの怖がるよね。アドレナリンどばっと出てたんじゃない? 最後に冗談言ってたしさ」
「冗談?」
ハチミツが洗う手を止めて、毛の長いしっぽを傾げる。
「ほら、じいさんがいつも言ってたやつ。”種”とか”芽”とか”根っこ”とかの話って、要するに”アイツら”に目を向けてやれって事でしょ?」
「ああ、ああ、ああ! そんで”肥料”な! 『たっぷりと満たしてやれ』って言っておいて、オマエが食われてりゃ世話ねぇぜってか! ハハッ」
サビネコ兄弟の話す内容はフレイルの事ばかりだが、頭の中では別のことを考えていた。参列したネコたちのことだ。
フレイルは、多少の押しつけがましさに目をつむれば面倒見のよかったネコだから、猫望は厚く、葬儀に参列したネコは非常に多い。さぞ慕われていたのだろう。彼らは「惜しいネコを亡くした」「昔世話になって」「立派なネコだった」と、口々に話していた。
ただし二言目には、
「やっぱりアイツらは皆殺しにするべきだ。これ以上犠牲が増える前に」
「病気なんだよ。手遅れだ。どうあがいてもアイツらは狂ってる。歪んだものは治らない」
「確かに同情の余地はアイツらにもあるが……こればかりはな。相容れない存在なんだよ、仕方ない」
と、フレイルの残した言葉とは真逆を零していた。
自分たちの気持ちも同じだ。けれどフレイルはそう願わなかった。でも今も拳は固く握られている。だけどそれではいけないと脳に刻まれている。でも。だけど。でも……。それがサビネコ兄弟の頭の中でうねうねと、不定形のアメーバのように形を変えて、ゆっくりゆっくりと全身を這う”根っこ”に吸い込まれていくのを感じていた。
「ああ、イラつくぜ……」
ハチミツは透明なグラスを握りつぶしていた。滴る血液が、シンクの内に一定のリズムでいらだちを響かせる。コハクはそれを見て、自分の手の平にも鈍い痛みを覚えていた。
サビネコ兄弟は休暇をとり、その間ひたすら稽古に明け暮れた。
疲れてくると踊り、心を落ち着かせては稽古に励む。食事もカリカリを少し齧る程度で、水もほとんど飲まなかった。
つながりが悪い。流れが悪い。
以前から度々感じていた、型をつなげた時の違和感が、やけに気になった。突き出した拳が「ちがう」と言う。蹴り上げた足が「なっていない」と言う。教わったことを真似れば真似るほど、その違和感が大きくなっていく。そうして苛立ちが募るたびに踊って心を鎮める2匹。
そんなことを何百回と繰り返した頃、次第に頭がぼんやりしてきて、稽古をしているのか踊っているのか曖昧になってきた。ふと同時に、「もう踊っているだけでいいんじゃないか」と投げやりな気持ちが湧いてくる。兄弟はなんとなく視線を交わしてから、軽く笑い、身体で覚えている踊りをいつもの倍以上の速さで舞ってみた。すると、
「お、なんかしっくりくるな」
「ね。もともとこうだったみたいに」
ストン、と身体の芯になにかが落ちて、それがしっかりとはまる感覚があった。疲れているはずなのに目の奥を爽快感が駆け抜けていく。ただ身体の方はもう限界だったらしい。「よし、もういっちょ」とそのまま稽古を続けようとしたところ、ついに立っていられなくなってバタリと倒れてしまった。
目をつむり、しばらくは息を整えるのに集中した。
「なぁ、コハク」
「なに? 兄ちゃん」
「じいさん、これ知ってて教えたと思うか?」
「絶対ないでしょ」
だよな、と大笑いして見た空は、明け方の色をしている。
「ところでさ、さっきから気になってたんだけどよぉ」
「うん、俺も俺も」
2匹は揃って、丁寧に手入れのされた垣根の下に顔を向け、
「「お前、だれよ」」
と、問いかけた。
気付いたのはコハクが先だった。昨日の夕方頃の話なのでかれこれ丸半日になるだろうか。その間ずっとそこにいたのかは分からない。垣根の下の土が堀り上げられているところを見ると、それなりの時間居たのだろうと思われる。
隙間にいたのは子ネコだった。サビネコ兄弟が暴れ回っていた頃よりは、いくらか幼い小柄なサビネコ。垣根の影から今もずっと2匹を見つめている。
「ぼ、ぼく……お、おどり……」
たどたどしい喋りかたは、物怖じしているわけではないらしい。表情は、自分が侵入者ネコだという自覚の全くない、さっぱりとした明るいもの。初めて連れて行かれた山の上で、眼下に広がる雲海を見渡した子ネコのように、目をキラキラと輝かせていた。
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