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空を炙る炎。広がっていく黒煙。
”黒い靄”も密度を増しいて、もう避けて歩くことさえ難しい。
宿場町パティオ・ゼノリスの中心部を目指す茶色いマイケルたちは、涙目になりながら大通りと直角に交わる路地を走っていた。
「たまらん! 息を止めても臭ってくる!」
「この黒い靄を遠ざける方法はないものか」
「諦めな。この先はさらに濃くなるよ」
「見て、大通りだ! あそこを渡れば」
リーディアさんたちのコテージは、大通りを挟んだ”向こう側”にある。だからそっちへ行けば会えるはずと思っていたんだけど、
「ええっ!? 燃えすぎぃ!」
大通りに並んだ”向こう側”のオープンテラスが、通せんぼをするように軒並み炎に包まれている。
「これじゃああっちに行けないよ!」
「安心しな! ”町の入り口”を覚えているかい? 大通りを入り口の方に進めば、建物の切れ目がある。そこから回り込んで”向こう側”へ行ける。向こうからもこっちへ来る道はそこしかないからね、上手くいけばそこで鉢合うさ」
ただし、とキャティは続ける。
「そのすぐ近くには激突したスラブが横たわってるからねぇ。つまりネコ・グロテスクがうじゃうじゃと湧いてくるってわけだ。巻き込まれたくなかったらとっとと探してとっとと町を出ていくことだね」
路地から大通りに出てすぐ右に折れる。
左半身に、怒鳴るように燃えているオープンテラスの熱を浴びながら走っていくと、正面にはキャティの言う通り『超巨大スラブ』が聳えていた。天井を突くように下から突っ込んだそのスラブはちょっとした岩山で、濃い青色を妖しく光らせていた。
「あった! あの路地だな」
虚空のマイケルの指す方を見ると、ネコたちがわらわらと溢れ出てくる場所があった。茶色いマイケルはそこにリーディアさんやサビネコ兄弟がいてくれないかと目を凝らす。
「あの猫混みを分け入っていくのはちと面倒だねぇ。おや? ちょうどいいところに。ヒッヒ。おいアホンダラども道開けな! アタシを誰だか知ってるかい!?」
すると、大通りに出てきてどちらに進むべきか分からず右往左往しているネコたちが一斉に、左手を挙げたキャティに振り向いた。「どうして手を挙げてるの?」と尋ねようとした茶色いマイケルはしかし、
「げぇっ!?」
と、その手の先にあるものを見て吐きそうになったよ。だってそこにはくっさい黒い靄がおっきな塊となって浮かんでいたんだからね。それを見たネコたちは、
「「「キャ、キャティ・マッド・グレースぅぅう!?」」」
と合唱し、やめろやめろと手を突き出した。その大部分が、マタゴンズと一緒になって茶色いマイケルたちを襲ったネコたちだったんだろう。それを見てキャティは嗤う。
「ハイ、せいかぁ~い!! ご褒美だっ! 受け取りなァ!!」
嬉々として叫ぶと、ネコボウリングでもするようにグルンと手を回し、手の先に作ったおっきな『黒靄球』を放り投げた! 黒靄玉は音を立てずに転がっていき、ことごとくネコたちに触れて進んだ。しかも路地の方へとカーブまでする。
「どーだ見たかいアタシのネコストライク!」
『おー! すげー!』
風ネコさまは黒靄球を気に入ったらしく、ヒュルルルっと球を追って飛んで行った。
「「「い、ら、ねぇぇ……」」」
よほど臭かったのか、ネコたちは声を裏返らせてその場に倒れてしまったよ。
「初参加でアレに耐えられるヤツぁそうそういないからねぇ。ほら、とっとと進むよ! 『猫たちの屍を越えていけ』ってやつさ」
気絶したネコたちで出来た道。キャティはそれを遠慮容赦なく踏んで、ずかずかと路地に折れ曲がる。子ネコたちは一応「ごめんなさい」と手を合わせてから、その上を歩いてキャティのあとに続いたよ。
「ねぇ灼熱、キャティってさ、この中にリーディアさんがいないって知ってたん……だよね……?」
茶色いマイケルが近寄っていって耳打ちすると、
「……アレに頼り過ぎるのも、危ないかもしれんな」
灼熱のマイケルは顔をひきつらせていた。だけど路地に折れた瞬間、冗談交じりの空気が塗り替えられる。
地面に折り重なって倒れている何百というネコたちの姿。路地の左右にある高い石垣の向こうには、猛る炎の先端が巨大な爬虫類の舌先のようにチロチロと見え隠れしていて、濃い影があたりを舐めている。漂う黒い靄も相まって、さながら地獄の入り口といった様子だったんだ。向こう側までは40~50メートルくらいしかないけれど、『一歩足を踏み入れたら最後……』なんて言葉が頭の中に浮かんだ。
さっさと行こう。
そう心の中でつぶやいて足を急がす茶色いマイケル。そんな中、ふと路地の中央、その片隅にうずくまっている子ネコを見つけた。
茶色いマイケルと灼熱のマイケルは咄嗟に顔を見合わせ、その子に駆け寄ったよ。「どぉしたのぉ?」と果実のマイケルたちも呼びかけながら追ってくる。すでに出口近くまで進んでいたキャティをうかがって見ればこちらを向いていて、「まぁ見ておいで」とでも言うようにニヤニヤしながらアゴでその子ネコを示した。どういう意味だろう?
「大丈夫!? 臭かったでしょう?」
鼻がおかしくなりそうな生臭さがまだ残っていた。
「端に避けておったから無事だったのかもしれんな。だがこの石垣も焼けてきておる。いつまでもここにおると火傷するぞ。どれ、立てるか?」
そう言って手を伸ばす灼熱のマイケル。すると子ネコは、
「かってくれるぅ?」
と、線の細い声で軽く首を傾げた。といっても、抱えた膝にぴったりと額をくっつけているから、顔は見えないんだけどね。
茶色いマイケルたちは「かってくれる、って?」としっぽを傾げてしゃがみこんだ。もしかして怖くて泣いてるうちに眠っちゃって、夢でも見てるのかなと思ったんだ。そう考えて子ネコの顔をのぞきこもうとした。
だけどそうじゃない。
子ネコは下を向いたまま、ボロきれみたいな外套をそっとめくりあげ、
「ねぇ、買って? 買ってくれる、よね……?」
と小さな洗面器をとりだして弱々しく差し出した。子ネコの両手は泥んこ遊びでもしてきたように汚れている。茶色いマイケルは「なんだろう?」と思いながらその中をのぞき込んだんだ。
……は?
と、間の抜けた疑問符が4匹分。
嫌な予感がしなかったわけじゃない。
子ネコから漂ってくる生臭さはただ事じゃなかったからね。それでも子ネコに「はい」と言って見せられたものをツンとつき返すようなことは出来なかったんだ。もちろん、その後にどうなるのかが分かっていたら別だろうけど。
小さな洗面器の中に入っていたものを、茶色いマイケルは図鑑に描かれた絵でしか見たことが無かったよ。確かに、誰でも持っているものではあるのだろうけど、よほどのことが無い限り、そんなもの、生で見る機会はないはずだ。
洗面器にこんもりと盛られた、それ。
粘り気のある黒色をした、それ。
思ったよりも小さな、それ。
4匹の時間が止まった。
それにまとわりついた大量のハエだけが、この止まった時間の中で動くことを許されているようだった。
すると、
「ねッ、どぉ? 買ってくれるぅ?」
うずくまっていた子ネコが、弾かれたように顔を上げる。
笑顔だった。まだほんのあどけない、本来ならそれこそ泥んこ遊びでもして無邪気な笑みを浮かべている年齢だろうに、痛みを上から塗り固めるように、”笑顔”がそこにはべったりと張り付いていたんだ。しかも、あるはずの目や歯が見当たらない。
「だ、だめだ下がってぇ!」
果実のマイケルの叫びにハッとして、咄嗟に後ずさったのは一歩分。しかし子ネコはその一歩分を難なく埋めて飛びかかってきた。
「ねぇかってかってかってかってぇ!」
泣き叫ぶように訴えてくるのに、
「買ってくれないとおこられるのぉ! またいたいのいっぱいいたいのいっぱいいっぱいいっぱいぃッ!」
その顔にある”物売りの笑顔”はちっとも崩れていない。
「うぅ……うわあぁあああっ!」
両手両足でがっしりとしがみついてきた子ネコ。茶色いマイケルは素早く1歩2歩3歩と後ろに下がったものの、勢いに負けて尻もちをついてしまう。遅れて、放り出された洗面器がカッと鈍い音を立てて路面に落ち、ぬめっとしたものがぼとりとこぼれ、ハエたちがぶわっと広がった。
「こ、このっ! 動くなっ!」
口を大きく開けて茶色いマイケルに食らいかかろうとする子ネコの頭。それを、灼熱のマイケルが抑えつけようとするんだけど、抵抗が激しすぎてうまく止められずにいる。アスファルトに放り出されたミミズみたいに必死になって頭を振っているんだ。「あとがないんだ、やらないと」って、胸を掻きむしるような焦燥感がどくどくと流れ込んできたよ。
「なんて力だ、引き剥がせないっ!」
虚空のマイケルが、子ネコの腕をとろうとするんだけど、ギチギチに締め付けられていて、指の先を滑り込ませるすき間さえないみたい。「かってかってかってかって」と口をばくばくさせて頭を振り続ける子ネコを目の前にして茶色いマイケルは、「こんなのどうやって!」と叫びたくなる。だけど、アゴがすっかり固く閉じてしまって唸り声も出せやしなかった。
「仕方ない、頭をっ……!」
子ネコの頭をがっしりと掴んでいた灼熱のマイケルの手が、これでもかと固く盛り上がって、岩でも握りつぶせそうなくらい筋を立てた。まさか、と思ったその時だ、
「力押しじゃ消せないよ。どれ、そこの太っちょチャンやって見な」
ヒッヒと笑うキャティの声が、果実のマイケルに白羽の矢を立てた。
「お、オイラぁ……!?」
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