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どこから話そうか。
ホロウ・フクロウが出てきたところから?
迷子の子ネコを見つけた話かな?
茶色いマイケルは今日の出来事を思い浮かべながら家路を急いでいた。
氷の神殿で聞いた、ご先祖ネコ様たちの話をしてみたらどうだろう? 雪と氷の女神様について何か聞けるかもしれない。
ああでもやっぱり、灼熱のことを先に話したいな! いきなりケンカしてきたなんて言ったらお母さんネコ驚いちゃうから、話す順番は考えないといけないけどね。
茶色いマイケルの前を走る楽しげな影が、夜にのまれるように輪郭をあいまいにしていく。通りで見かけた仕事終わりの壁塗りネコさんに挨拶をして、ご近所ネコさんに手を振った。
マークィーの氷像に夢中になっていたところもいいな。子ネコをあやしてたところも悪くない。ううん、やっぱり屋根から脚が生えていたところかな。ボク、すっごく焦ったし! もう、話すことがたくさんありすぎて忙しいや。
あれを話そう、これを話そうと考えているうちに、あっという間に家の前まで来ちゃってた。ドアノブに手をかけたところで、
「あっ! 大森林のことは内緒なんだった!」
ついつい大声を出しちゃったよ。慌てて口を塞ぎ、そろーりと周りを見渡すと、あはは、よかったぁ、誰もいない。大森林には入っちゃいけないことになってるからね。言いつけを破ったってことがバレたら……。
「だけどホロウ・フクロウのことは絶対に話したいなぁ。ええい、怒られちゃってもいっか!」
力強くドアを開け、二重扉の奥、家の中へと入った茶色いマイケルは、台所からの「はーい」という声を聞いた。
「ボクだよー、茶色いマイケルー」
「あら、早かったわね」
エプロンで手を拭きながらお母さんネコが振り向いた。台所での用事は終わったのかな、水道の蛇口は閉まっている。たらいに水が一滴、ぽちゃんと音を立てた。
「お母さんネコ! 今日、ボクね――――」
「雪は、たくさん食べられた?」
ニコニコしながらお母さんネコが言ったんだ。
「……」
声は出せなかった。
キーン、と耳鳴りがする。
ドクン、と心臓の音が耳から聞こえた。
優しく笑いかけるお母さんネコの姿が、氷柱にうつったみたいに歪んで見えた。
一瞬だけ、何も見えなくなったんだ。
「まぁまぁ、泥だらけになって。あんなに積もった雪の中でどうやったらそんなになれるんだか」
うふふ、と笑う。いつもと変わらない顔で。
「お母さんネコ、だって、今日は、雪が……」
「はいはい、お話は晩ご飯を食べながら聞かせてもらうからね。まだ少し早いけど、もう食べる?」
夜のとばりが家の中にもおりてくる。ネコの目が、暗がりにピントを合わせた。
これじゃだめだ。
茶色いマイケルは思ったんだ。力が抜けて、ぐにゃりと背中が曲がった。今日起こったことのすべてが、取るに足らない話にしか思えなくなっていた。こんなんじゃ、これだけの話じゃ、お母さんネコは元気になってくれない。
どうしたの? と首をかしげて返事を待つお母さんネコ。茶色いマイケルはおもいきり首を振ったよ。頭の中に渦巻いているあれこれを振り払うようにね。ぴょんぴょん飛び跳ねてくっついてくるノミに「あっち行け!」っていうみたいにさ。
「あはは、ちがうよ、お母さんネコ!」
いたずら好きの太陽がちょっとだけ戻ってきたような明るい声。
「帰って来たんじゃない。遅くなることを言いに来ただけなんだ!」
まばたきはしない。まっすぐにお母さんネコを見る。
「あら、そうなの? でももう真っ暗よ?」
茶色いマイケルはお母さんネコの方に一歩、ぴょんと跳んで近づくと、その手を握った。
「心配いらないよ! 月の光さえあればなんだって見える。ううん、小さな星が見えているならそれだけで、ボクたちネコは歩けるんだ! それよりも聞いてよお母さんネコ。冒険なんだ! すっごい冒険が待ってる! 絶対絶対、今度こそ最高の物語を聞かせてあげるから!」
本物の、真実の物語を聞かせてあげる!
握った手に力を込めて、それからパッと離した。
「だから、もしかしたらすっごく遅くなっちゃうかもしれない。だけど絶対! 約束するからさ! じゃあ」
行ってきます。
扉を閉めるときに見たお母さんネコの顔は、微笑んでいるようにも寂しそうにも見えた。口元には何かを言いかけた様子もうかがえた。壁掛け時計がちょうど夕食の時間に針を置いた。
だけど茶色いマイケルは扉を閉めたんだ。
絶対にって今、約束したからさ。
家を出るなり身を低くして走り出す。タタッ、タタッ、と道を擦るような軽い音。どんどん速くなる。
「チルたちのお母さんネコに手紙を書こう」
お母さんネコのことよろしくお願いしますって、すごく丁寧な字で。
「チルたちのぶんも一緒に書こう」
最高の冒険の話を聞かせるから楽しみにしててって。
茶色いマイケルは街を駆け抜けながら、流れていく景色だけじゃなく、その向こうの、そのまた向こうの路地の裏の裏まで想像して、心の中に刻み込む。
これから先の冒険で、すべての思い出が上書きされてしまわないように。帰ってきたときにすぐ、お母さんネコの元に走っていけるように。
ばいばい、スノウ・ハット。
最後にそう言い聞かせ、茶色いマイケルは「みゃあ!」と大きな声で鳴いた。
返事はすぐだった。
それから。
まっすぐ。まっすぐ。
たった一つの荷物を胸に抱えて、茶色いマイケルは走ったんだ。
どんな顔をしていたかって?
そんなの、決まってるじゃないか!
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