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驚愕をよそに、子ネコたちの身体は空へと向けて加速した。
当たり前のようだけど、速さっていうのは身体が感じているものらしい。
びゅんびゅん吹く風を肌で受けたり、間近に通り過ぎる建物を見たりするからこそ、速いって感じるんだ。周りに建物がなく、風もなく、大気の抵抗も感じない状態では、速さも怖さも感じない。おかげでパニックにならずに済んだ。ぞわぞわしないエレベーターみたいなものだね。
4匹はそれ以上口を開くことなく、空へ空へと上がっていったよ。
再び口を開いたのは、昇っているのか止まっているのか分からない場所まで来たときだ。そこは超ネコ気球で昇った地上5万メートルよりも、さらにこの星の姿がよく見える場所だった。あの時と違うのは、星がオレンジ色に発光していたことかな。茶色いマイケルはあまり見ないようにしていた。
「こんなところに、『世界の大時計』があるのか……?」
虚空のマイケルが宙の暗闇を見間渡しながら疑問を口にした。その言葉にヒゲをピクつかせたのは灼熱のマイケルだ。果実と茶色の2匹と順に目を合わせ、
「世界の大時計、か。あの店主の言によれば……」
と眉をひそめる。それを果実のマイケルが、
「うん、そこにぃ入り口があるって」
と言って引き継いだ。歯切れの悪いもの言いなのは、みんな同じ言葉を思い浮かべていたからだと思う。なんとなくそれを口に出せないでいるとオーロラネコさまが、
『お前たちはこれから『あわあわの世界』へと旅立つの』
と玲瓏な声で言葉にしたよ。
どこか夢物語のように思っていた部分があったんだろうな。
超常の存在である神さまから聞いて初めて、『あわあわの世界』というのが本当にあるんだという実感が生まれた。窓を開け放って見た景色みたいに、頭の中がクリアになったんだ。
その言葉が号令となったのか、音のするはずのない宙の世界に、
リンゴーン、リンゴーン
と鐘が鳴った。
鐘の音はすぐ頭の上からで、鐘身を勢いよく振っている様子がありありと目に浮かぶほど近い。あるいはそれほど巨大なのかもしれないな。前へ後ろへと振れる大鐘を、子ネコなら追いかけずにはいられないよ。
だけど4匹が上を見ることはなかった。
茶色いマイケルたちはオーロラネコさまの織りなす光の絹布に包まれ、指し示されるがままに星へと視線を注いでいたんだ。
『あれが世界の大時計だよ』
言われて「えっ」と息をのむ。
だってその先にあったのは、崩壊寸前で時を止めた空の山、あるいは山の空。神さまの造った超常物――
――クラウン・マッターホルンだったんだ。
『よく見えるようにしてあげよう』
オーロラネコさまがそう言うと、子ネコたちの凝視していた山脈周辺がぐんぐん鮮明になっていく。意識を向ければその部分が近づいてきたのかと思うほどはっきりしてくるんだ。
茶色いマイケルは、円環状に連なったクラウン・マッターホルンの中心に、見覚えのある建物を見つけた。
「あれって……」
「ああ、虚空宮殿だ」
虚空のマイケルも同じものを見ていたらしい。
円環の中心には虚空宮殿があって、この宮殿もまたクラウン・マッターホルンと相似した円環状だった。ドーナツのようにぽっかりと穴が開いていて、さらにその中心には『神域接続の間』が浮かんでいる。息をのむマイケルたち。
これが何かの偶然だと思うほど、その建物のことを知らない4匹じゃない。
”鈍く月明りの色をした建物”
”球を凄まじい力で歪めた建物”
”見た瞬間に「違う」と分かる建物”
”そこにあるのに、そことは違う別の場所にあるような建物”
それは、神さまたちの領域へと繋がっている建物なんだ。
『あの部屋はね、軸なの』
ギィィ、と仕掛けの軋む音が聞こえてきた。それに合わせて、
「「「「あっ」」」」
虚空宮殿が回りだす。
時計が時を刻むときの回り方じゃない。穴を正面にしたリング状の虚空宮殿が、中心にある『神域接続の間』を縦の軸にとって反転しはじめたんだ。ひっくり返って、裏返しになって、さらにひっくりかえって、また表を見せる。
その動きが加速して、やがて回転が安定した頃、
ガコッ
と歯車のかみ合うような音がした。
「う、うそでしょぉ……山がぁ」
そう今度は、『神域接続の間』を横軸にとってクラウン・マッターホルンが回転をはじめた。
下から上に向けてぐりんとひっくり返る。あの巨大な、見上げても見上げきれないほど巨大な『犬歯の山』でさえその一部でしかない超自然の山脈が、ぐりんぐりんと、まるでオモチャのような動きで反転を繰り返しているんだ。
さらには増えた。
はじめ、高速回転するリングのように、回転速度が上がって山脈がぶれて見えたのかと思ったんだけど、そうじゃないみたいだ。オーロラネコさまが言うにはもっと単純で、山脈が二つになったらしい。『重層化したんだよ』と言っていた。意味は分からない。
その重層化したクラウン・マッターホルンが、今度は『神域接続の間』を斜めの軸にとって、他の2つとは別の回転をしはじめた。
虚空宮殿と、二つのクラウン・マッターホルン。
異なる3つのリングが『神域接続の間』を中心として反転を繰り返している。その様は、オレンジ色に輝きだした星の手前にもう一つ天体があるようだった。
リンゴーン、リンゴーン
ゆったりとした鐘の音が響き渡る。
歯車のかみ合う音。軸の軋む音。部品と部品とがこすれ合う音。
それらに、カチ、カチ、カチ、と固い秒針の音が加わった。
これが……『世界の大時計』。
気付けば幼ネコみたいにぽっかりと口を開けてしまっていた。心臓が、その秒針に鼓動の速さを合わせたがっている。
茶色いマイケルは、この途方もない機械仕掛けの大時計をすくうように、そっと両手を差し出した。もちろん肉球の上になんて載りはしない。
ただね、そうしてみると、ズタズタに壊れたと思っていた心に、どういうわけだか機械仕掛けの音がひどく染みたんだ。まるで「うごけ、うごけ」と心臓を圧されるみたいにさ。
『さぁ、名残惜しいけれどお別れだ』
見入っていた4匹のマイケルを気遣うようにオーロラネコさまは言った。
『世界の裏側へと案内しよう』
すると一瞬の浮遊感もなく、茶色いマイケルたちの身体が星に吸い込まれるように落ちていく。大気を感じないから加速しているのかどうかはわからない。規則正しく回り続ける『世界の大時計』が近づいてくるだけだ。
ふと身振り大きく口をパクパクさせている灼熱のマイケルの姿があった。熱も紫外線も圧力も感じないのは変わらないけれど、今度は音も無くなっているらしい。
何か尋ねているのかな、と思って見ていると、そこへ、
『茶色いマイケル』
とオーロラネコさまに声をかけられた。
『どうかあの子を嫌わないであげて』
あの子? と声を出そうとするけれど、自分の耳にも届かない。
『あの子は大切に思っているだけだから』
振り返るとオーロラネコさまはもういなかった。子ネコたちを包み込んでいた美しいオーロラのカーテンもまた、いつの間にか無くなっていたんだ。
あの子って……。
誰のことだか考えようとしていると、大きな影がもの凄い速さで目の前を通り過ぎた。それは一つ目のリング、クラウン・マッターホルンだよ。さっきはよほど遠くから見ていたんだろうな、近くで見ると速すぎて腰が抜けちゃいそうだ。
遅れて2つ目のリングが通り過ぎ、茶色いマイケルたちはそれらを潜って世界の大時計の中心へと沈んでいく。
ちょうどその辺りだった。
ふと誰かに見られているような気がしてそっちを向いたんだ。そしたらほんの一瞬、風ネコさまの姿が見えた気がした。茶色いマイケルの耳に手を入れた時のままの恰好で固まっていたけれど、
――なんだか手を振っているみたい。
嫌な感じはしなかったな。
茶色いマイケルは前を向き、回転し続ける虚空宮殿を真正面にとらえる。
『嘆きのネコに幸いを』
遠くから、そう聞こえた気がした。
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