◆◆◆
『おい、そこな襤褸(ぼろ)を纏った旅ネコよ。この大地はすでに死んでいる。呪いだ。呪いの砂時計はもう世界に終わりを告げている。お前にも見えているはずだ。ならばなぜ無駄と分かって種をまく』
円形野外劇場、地下小ホール。
夕闇ほどの照明の中、アレッシオ役の黒ネコが客席にいる劇団員ネコたちに向かって語りかける。彼の後ろにはうす汚れた外套を纏ったネコがいて、背中を向けて土に手を入れていた。
ほのかに白く輝いて見えるのはその女優ネコのオーラだろうか。
彼女がちらりとふり返る。
観客席の後ろの方から観ていた私はその横顔のまばゆさに目をつむりかけた。そのとき、足元の照明がやんわりと光を広げる。
『無駄? 無駄とおっしゃいましたか土地のお方。しかしそう思われるのも無理はない。焦げた草原、爛れた森林、陽の光も注がない空。嘆きの景色は呪いの箱。私たちに出口はない』
氷が涙を零しているような、冷たくて寂しい声。だけど、
『しかし誰が無駄と決めるのでしょう。明日の陽光をこの夜に夢見ることを、誰が止められるというのでしょう。土地のお方』
強い。
一瞬で相手の心をハッとさせる冷たい声。言葉に内包された意志の力が膨らんでいく。アレッシオ役の黒ネコが息を詰めているのは演技ではないかもしれない。
『……アレッシオだ』
『ええ、ならばアレッシオ。あなたはきっとご存知でしょう。嵐にしおれた畑の中に、それでも立つ一本の麦の穂があることを。押し寄せた濁流が、いつしか澄んだ流れとなって作物に恵みをもたらすことを。ならばどうしてこのひと粒が大地を蘇らせるひと粒とならないなどと言いきれましょう。それを決めるのは私。そして他でもないあなた自身』
冒頭で強い衝撃を受けた私は、その後の十にも満たない掛け合いによってアレッシオと共に、彼女の語る『昔話の世界』へと引きずり込まれてしまう。場面は、神を信じ平穏に暮らしていたリーディアの父が、その妻を手に掛けたところへと移った。
『ああお父さま、お父さま! どうしてお母さまを……。これが私たちの辿るべき運命! しかし私は頭(こうべ)を垂れましょう。お父さまがこうあれと仰るのであれば。されどどうか、決して私1匹にはしないで下さい。せめて残りの猫生はお父さまと心穏やかに……』
けれど偽りの神によるまやかしの平穏はしたたかに父ネコをも飲み込み、リーディアに決意をさせる。
『これが神? これが神なのですかお父さま。お母さまだけでなくお父さままでをも私から奪ってしまう。この悲しみを繋いでいくことが私の使命とおっしゃるの? そこの子ネコにもあちらの乳飲み子ネコにも同じ苦しみを背負わせねばならないと。ならばそれは厄災だ!』
彼女は神を騙る厄災の目を盗み、夜闇に紛れてネコたちを連れ出した。苦難を見据えたその瞳は、しかし悲哀さえも打ち砕くほどの冷たい強さを帯びていて、
『さぁ、共に』
そう差し出された手に向けて、私は思わず腰を浮かせていた。
演技が終わると満場の拍手がそそがれる。熱気はあるものの彼女の持つ不思議な冷たさが小ホールの隅々にまで浸透し、役者ネコたちの口数は少なくなっていた。彼女に続いてリーディア役に挑んだネコたちの演技はどこか芯が揺れている。
「強烈だったからね」
隣からグリューズが耳打ちする。
「あんな演技のあとじゃどんなに稽古を積んでたって意識せずにはいられない」
演出家ネコも彼女を一番手に据えたことを失敗したと思っているのかもしれない。私たちの席から見える頭が居心地悪そうに揺れている。
「じゃあリーディア役はカルティアさんで決まり?」
自分の演技を貫くことができなければ勝てはしない。そういう次元の競い合いなのだ。けれどその演技を見た者すべてが芯を揺らされてしまうのならばもう誰にも勝ち目はない。
グリューズはふっと笑って、
「分かってるくせに」
と席に座り直した。
「さあ次だ。きっとあいつも同じ答えを描いたに違いない」
舞台が暗転する――。
◆◆◆
真っ暗闇。
その中にアンバーゴールドの瞳が静かに開かれた。
止まれ。
俺を見ろ。この瞳の奥底まで堕ちていき、この心を、この魂を味わえ。ギラリと鈍く光る瞳が訴える――。
『何という悪虐か。いまだ厄災の広がりは衰えず、風に乗った汚泥のごとく猫々の内に入り込む。臓腑を腐らせ憎しみの渦に誘い込む! 高潔な意思よ、純朴な心よ、今一度、今一度だけ奮い立ち、蝕む厄災に立ち向かいたまえ』
黒毛に赤茶の炎をほとばしらせる『黒錆び』の、地揺れすら感じさせるバリトンボイスが氷に魅入られた舞台と客席とを瞬く間に溶かしていった。彼は、カルティアさんに揺らされた芯をさらに震わせることで突き進むための熱へと変えたのだ。
この戯曲の主猫公はリーディアだ。
アルドは男性ネコなのだから通常であればアレッシオか、リーディアの賛同者ネコの誰かの役を目指すことになっただろう。
しかし彼は自ら書き換えた。
リーディアをアレッシオとし、話の筋を変えずに脚本をまるごと書き換えた。しかもカラバや演出家ネコに面白いと言わせたのだから驚きだ。彼らは試し程度で首を縦にふるネコたちではない。そこにはきっと光るものがあったのだろうと、私はそう予想していた。いや、その程度にしか考えていなかったらしい。けれど、これは。
隣で見ているグリューズが私に気を使いながらそっと唾を飲み込む。
『厄災よ! 我が父を唆し、我が母を貶めた憎き厄災よ! いいだろう俺が立ってやる。貴様が我が影を追い続けると言うのであれば、この心を燃やして立ち向かおうではないか! 覚悟して飲み込むがいい! その時が貴様の最後なのだから……!』
舞台の上には彼一匹。
背中を向けている。
だというのにその後ろ姿に魅せられたネコたちが見えてくる。何十万の軍勢となって厄災へと立ち向かう勇姿が浮かんでくる!
――これは、リーディア。
私は確かにアルドの背中にリーディアの強さを見た。一言も語りかけていないのに、どんな言葉よりも雄弁にネコたちを鼓舞しているその背中。
――なんて力強さ。
握った拳が震えるのを感じた。そして、ぞっとした。なぜなら、
――このリーディアは悲劇で終わる。
予感。いや確信だ。
結末を変えたわけではない。種をまき、自らの命を使って大地を癒やし、芽を育む。その筋は変わらない。
けれど中盤に力強くあることを選んだ代償に、最期の時が迫るにつれて彼の心の炎が儚く見えてくるのだ。強い炎はよりはやく蝋を溶かしてしまう。そして、黒焦げた蠟燭の芯が静かに横たわる。
“彼にすべてを背負わせてしまった”
倒れたまま動かないアルドの背中は観ている者に抜けることのない『後悔』の杭を突き立てた――。
◆◆◆
端役(はやく)を含めた役者ネコたちが入れ代わり、それまでの緊張感がタンポポの綿毛のようにふわっと散って、小ホールには弛緩した空気が流れていた。ざわつく声は次の役者ネコたちのことなど頭の隅にもない様子。先ほどのアルドの演技に浮かされているのだろう。照明すらもどことなく明るい。
「リーア」
席を立つ私に声をかけたのはグリューズだ。
「君のリーディアを見せてよ」
昔のような弱々しさはなく、それでいて変わらず欲しかった言葉をくれる。心強い味方ネコ。ただ、
「まかせて」
応える声には思いがけず緊張がのっていた。
どちらも私には出来ない演技だった。冷たく、爪の先まで洗練された演技で物語を染め上げた『氷の微笑』カルティアさん。かたや枠組みを食い破って真に迫る『黒錆び』アルド。絶対に真似できないそれぞれの強さがあった。2匹とも完全に役を自分用に仕立て上げている。
どう立ち向かえばいいだろう。
そう考えた瞬間に身体がこわばり指先が震えだす。
――ちがう。そうじゃないでしょリーア。
下手(しもて)側、舞台袖の階段を早足でのぼり絹の暗幕を少しだけめくってサッと中に身を滑らせた。暗がりに包まれたところで目を閉じ深く深く息を吸いこんだ。
――想い描くのはあの雲よ。リーディアから受け取った理想の私。その姿、それだけを見ていないと飲み込まれるわ。
長く吐きだし、ゆっくりと吸う。
そうだ。私は雲。身体という器をこえて大きく大きく膨らんでゆく雄大な雲。
深呼吸を何度か繰り返していくうちに震えは消えていた。大丈夫。落ち着いているわ。顔を上げて胸を張りなさい。と、そこでかすかな足音を耳が拾い、目を開けると白い影があった。
「カルティア、さん……?」
普段は仲のいい劇団員ネコたちでもオーディションともなれば神経質にもなる。そのためライバルネコ同士が顔を合わせて余計なトラブルにならないように、下手(しもて)から入った役者は上手(かみて)から抜けるよう言われていた。
彼女の出番はもう終わっている。この待ち伏せの意味を誤解されてしまえば失格もありえるのだが……カルティアさんは揺るぎなくゆったりと近づいてきた。靴を履いていないので音はしない。なのにその一歩一歩に冷たい氷の音がして粉雪が舞い散るようだった。見とれてしまう。
彼女は私の前まで来ると、
「心は決まっているようね」
言って、すれ違いざまに軽く尻尾をふりあげ私の頬を撫でた。それから暗幕の隙間が閉じる直前、
「頑張りなさい」
と言ってくれた。返事はしなかった。
◆◆◆
そして、舞台。
降りそそぐ照明が絞られる――。
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