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茶色いマイケルたちは、朝早くから『長靴を売ったネコ屋』に集められていた。
店中の窓という窓が締め切られ、暗がりの中、その部屋の扉だけがぼうっと光っている。
『空と大地のつなぎ目の部屋』
そう、いよいよこの部屋を通って大空の国へと行くんだ。
3匹は文机の前のソファーに並んで座り、カラバさんが準備を整えてくれるのを待っていた。傍らにはそれぞれの荷物がばっちり準備してある。果実のマイケルは布地の肩掛けカバンを、灼熱のマイケルは重いスーツケースの代わりにズタ袋を用意している。茶色いマイケルは腰に下げた小ぶりな荷物袋をそっと撫でたよ。
部屋はおおむね静かなはずだった。
それなりに緊張していたし、その部屋の先にあるだろう色々が頭をめぐって、考える時間が多くなっていたんだからね。だけど、
「茶色ぉ、家から手ぶらで飛び出て来たんだってねぇ。うけるぅ」
実はさっきから果実のマイケルが、こんな調子でねちっこく茶色いマイケルにちょっかいをかけてくるんだ。どうしたんだろう、いつもならもう一匹のマイケルしか相手にしないんだけどなぁ。そんな風に不思議がってたらさ、
「くくく。果実のやつ、ピッケが演説で茶色ばかり持ち上げたものだから悔しがっておるのだろう。こいつはワシと違って悪ネコに徹しきれず、少なからず良いところを見せようとしていたからな。中途半端なコウモリネコの末路よ。哀れなり」
って灼熱のマイケルがこっそり教えてくれた。
「ねぇねぇ、2匹でこそこそ話すのやめてくれないかなぁ。なんかカンジわるくなぁい?」
元々膨らんいる顔をぷくぅとさらに膨らます。
「いやなに、茶色がもらった荷物袋はどんな物かと気になってな。ほれ、ワシが作ってもらったのはこれだ」
ズタ袋を目の前に突き出されると、子ネコの顔が一変した。
「ええぇ!? いつの間にだよぉ! そういうのさぁオイラにも教えてよねぇ、なんだよもぉ」
「欲しいなら今からでも頼んでみたらどうだ、遅くはないと思うぞ。あの子ネコのことだ、きっと快く引き受けてくれる。大空行きは待ってやらんがな」
扉が開いたのは、そうしてニャーニャーと店内が騒がしくなり始めた時だった。
「準備が整いました。みなさん、どうぞこちらへ」
疲れた笑顔のカラバさんが扉から顔を出す。すき間からちらりと見えた部屋の向こうは、なんてことのない応接室みたい。腰を上げた子ネコたちは足早に部屋の中へと入ったよ。
だけどさ中に入った瞬間、3匹が3匹とも「えっ」と驚いた。そこはまるで雲の中だったんだ。
綿菓子みたいな水蒸気がふわふわもくもく浮かび、それに光が拡散してとってもまぶしい。太陽なんて出ていないし、灯りがあるのかもはっきりしないのにこれだけ明るいっていうのはどういう仕組みなんだろうね。
「この部屋は大地に住まうネコたちの身体を、大空の国に順化させるための部屋です。そのまま渡ると身体がはじけ飛んでしまうかもしれませんからね」
「は、はじけっ」
「冗談です」
やけにいい笑顔だった。
「15分間ほどこの中でお過ごしください。時計はありませんが、時間になると奥にもう一つ部屋が現れますので、そちらから大空の国に渡ることが出来ます」
「あれぇ? カラバさんは一緒に行かないのぉ?」
少し寂しそうに「残念ながら」って言う表情からは、苦々しいというより、恥ずかしがるような印象を受けたんだ。案外、ピッケと同じことを考えちゃってたのかもしれないね。カラバさんにとっても、この街は大切だったんだからさ。
「一つお話をさせて下さい」
ふわふわした水蒸気が毛の間に入り込んで、肌寒さを感じた。しっぽの毛がわずかに逆立つ。
「以前、はっきりとお答えできなかったことがあります。私がピッケさんをこの街に留めた理由です」
「ふむ。あれはピッケの生活を考えてのことだと言っておらんかったか?」
腕組みした灼熱のマイケルが首を傾げる。あの時は飛びかかりそうな怒りを抑えて、なんとか納得していたけど、それがもし違うとなると……茶色いマイケルはそろりと一歩距離を取ったよ。果実のマイケルも離れるのが見えた。
「本当は一年前の時点で、ピッケさんに『黒錆び』の病気を治す特別なマタタビ酒をお渡ししてもよかったのです。旅の荷物を用意し、何ならスノウ・ハットまで送って行っても」
ええっ、と驚いたのは2匹だけだった。驚かなかったのは灼熱のマイケルだけさ。怒り出さない代わりに、何も言わずに説明の続きを待っている。
「それをしなかった理由は一つ。私が、いえ、我々が、あなた方を待っていたからに他なりません」
「ぬっ、ワシたちを?」
「待ってたって……」
「えぇ、3匹ともぉ!? オイラたちが会ったのなんて偶然だったしぃ、そんなの待ってたらいつになるか分からないんじゃないのぉ?」
「確かに。おっしゃる通り、はっきりとした時期までは分かっておりませんでした。しかし、そう遠くないことだとも知らされていたのです」
「知らされていただと? いったい誰に」
すばやく食いついた灼熱だったけど、
「それは空でお確かめください」
カラバさんは苦笑いで話を終わらせた。知りたかったけどさ、意地悪で言っているようには思えなかったんだ。
「あれぇ?」
ネコの足音がペタンと聞こえた。
振り向くと果実のマイケルがふらふらしていて、そのおっきな身体を灼熱のマイケルが素早く支えていたよ。「どうしたの大丈夫?」って尋ねようとしたんだけど、目が勝手に揺れて視界がぶれたんだ。そのあとすぐ「うっ」という声が灼熱からも聞こえてきた。
「意識が遠のいて……店主これは……」
「時間のようです。どうか眠らずに意識を保って下さい」
「えぇ……ちょっとそれは無茶なお願いかもぉ……」
「息を吸い、この部屋の先で遂げたい目的を思い浮かべて下さい。そうすれば眠気は引いていきます。今はそれだけを考えて下さい」
「で、でもぉ、オイラ眠たすぎて目がもう開かなくなっちゃって」
「とんでもないところに飛ばされるかもしれませんよ」
「ひぃぃっ! オイシイものオイシイものオイシイもの……」
果実のマイケルはそれで目を開けることが出来たみたい。あれ、目的変わってない? 灼熱のマイケルも果実を支えながら何かつぶやいている。充血した目がすっごく怖い。けど、茶色いマイケルの方はうまく目的に集中できなかった。
お土産話……いや、ピッケの……メロウ・ハート……時間を……冒険が……世界を……お土産……あれれ……。
遠のく意識の中、カラバさんの声がふにゃふにゃになって聞こえてくる。
「今は目的のことだけを考えて下さい。大空の国へと無事渡ることが出来れば後の話はそこで聴くことが出来ます。目的を。目的を取り間違えないよう……」
目的を……目的を……目的を……、とそれが本当に聞こえていたのかさえ分からない。ただ、最後に、
「それでは良い旅を」
という声がはっきり聞こえた。
瞬間。
パチッ、と今までの眠気がウソだったみたいに目が冴えた。
「えっ」
風が、茶色いマイケルの声ごと身体を巻き上げる。ぐわん、と頭が揺れたけれど、こんな風に飛ばされるのが初めてじゃなかったからかな、周りの様子はちゃんと見えた。見えなきゃよかった!
「ええええ!?」
揉まれるように飛ばされているのは空の上。だけど大きな岩のごつごつした地面がすぐそこに見えた。いいやそれはまだいい方だ。熱い。毛を焼いてしまいそうな熱気に包まれた。視線の先の地面に亀裂が入り、そこから赤黒い熱の塊がどくどくと湧いてくる。もしかしなくても溶岩かもしれない。絵本の中でしか読んだことはなかったけれど、きっとそうだ。
ジュッ、って溶けちゃう!
そのタイミングで風が止むんだから心臓が飛び跳ねた。おしりをムズムズさせる浮遊感のあと、身体が一気に溶岩に向けて落ちていく。「みゃあああああ」って叫んで目もグルグルで、ああ、もう何考えていいか分からないよ!
いよいよ溶けちゃう、って目を閉じた。
そしたらさ、また風がふわりと吹いたんだ。でも待って、さっきとはちょっと違う。
全身を包み込む風はひんやりしてて、恐る恐る目を開けてみると、やっぱり! 小さな雪の粒が風の流れに乗っている。
そのままどこかに運ばれていくのかと思ったんだけど、気づけば地に足をついて立っていた。
「ここは?」
そこはとても懐かしい匂いのする暖かい場所。でも何もない。あ、でも。
向こうの方から誰かの笑い声が聞こえてくるよ。誰だろう。あれはもしかして……。
だけど茶色いマイケルはそこへ歩いて行くことはできなかった。どうなっているのかは分からないけど、目の前に透明な壁が一枚あるみたい。
あそこまで行きたいな。
あの場所はとっても温かで、賑やかそうなんだもん。
もう一度手を伸ばすと、壁がなくなっていた。それと同時に声も、温かい雰囲気も、何もない場所もなくなり、扉があった。
扉は向こうから開いた。とてつもなくまぶしい光がいっぺんに差し込んできて、思わず目をつむった。
「来たか」
光の中に現れた影が重々しい声でこう言うんだ。
「俺は虚空のマイケル。さぁ、時間がない。飛ぶぞ」
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