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裸足で砂浜を歩くような柔らかい足取りで寄ってきた鬼ネコ面は、茶色いマイケルの左隣にあった椅子を、音を立てることなく引いた。
その正面でハチミツさんが、子ネコたちとは少し違った驚き方をしていたけれど、コハクさんが「兄ちゃん、違うっぽい」と小声で言うと眉をひそめたまま椅子に背中を預け直したよ。
鬼ネコ面をはずし、フードを脱いだその女性ネコの毛色は黒。耳の先から指先までが真っ黒で、淡いブルーの瞳だけが穏やかに光を湛えている。思わずまじまじと見てしまっていた茶色いマイケルだったけど、黒ネコさんに「ん?」と首を傾げて微笑まれると、慌てて顔を伏せた。
ふふふ、と優しく笑う黒ネコさん。
茶色いマイケルは「えへへ」と恥ずかしそうに笑って、ゆっくりと顔を上げた。
「い、一応確認させてほしんだけどぉ……」
「”ああ、君たちと話をしたのは私で間違いない”」
ハチミツさんたちも含めて、その場にいたネコたちが一斉にぎょっとした。中性的でギュッと引き締まった声になっただけでなく、その雰囲気までが一瞬で変わったからだ。それは『本戦受付会場』の出口で茶色いマイケルたちに話しかけてきた、あの鬼ネコ面の声で間違いない。
「ごめんなさい。本当はあの時にちゃんと顔を見せるつもりだったんだけど」
またまた一瞬で変わる雰囲気。「忘れちゃってたの」と言って出した舌は、肉球と同じ薄いピンク色だった。
「ふむ、忘れていたのなら仕方ないな」
おや、と思ったのは灼熱のマイケルが妙に聞き分けがいいからだ。つっぱねるかイジワルなことを言うかと思っていたのに、と見てみれば、
「キモッ! オマイなんだよぉ、そのニヤケ面ぁ!」
果実のマイケルの言う通り、とろけた溶岩みたいに笑ってた。
「は、はぁっ!? キモくなどないわ! キモイっていうお前の方がよっぽどニヤケててキモキモッ!」
「落ち着け。とりあえず2匹とも顔がだらしなく緩んでいるのは事実だ。だがそれは君たちだけに限らない。俺や茶色も少なからずそうなっている。これほど魅力的な女性ネコなのだから仕方のない事だろう」
そう言うと虚空のマイケルは、すばやく店員ネコさんを呼び、黒ネコさんに代わって注文をしていたよ。本当に子ネコかな。黒ネコさんは「まるで王子ネコみたいね」とお礼を言った。そんな調子でどぎまぎしている子ネコたちをよそに、
「そんでねーちゃん、さっきの話だけどよぉ」
とグラスをぐっと飲み干したハチミツさんが話を進めようとする。その声にはどこか焦りのようなものが滲んでいるように思えた。ただ、
「うーん、その呼び方はやめて欲しいかな。もうそんな年齢でもないしね」
と黒ネコさんはマイペース。
「だったら早めに名乗っときな。俺らもこいつらに聞きたいことが」
「『ピサトの残り火』」
その言葉にハチミツさんとコハクさんはピタリと動きを止めた。
「心配しないで。あなたたちにも有益な情報があるの。それにもう、焦る必要はないみたいだしね」
黒ネコさんは子ネコたちを見てにっこりと笑い、茶色いマイケルたちは首を傾げたよ。しかもその後に、
「私はリーディア。呼び捨てで構わないわ」
なんていうものだから、ついつい目をぱちくりさせてしまう。
リーディア……!?
すると、
「ふふふ、良いでしょこの名前。あの劇の主人公と同じ名前。知ってるわよね?」
と少女ネコのような笑顔で名前を自慢した。それで緊張した空気が一気に和らぐ。
「な、なあんだぁ、ビックリしたよ」
メロウ・ハートでのことや果実のマイケルの話を聞いて、ここのところ、子ネコたちの間でその名前は、劇の主猫公以上の意味を持っていたからね。まるで記憶の中から本当に飛び出してきたのかと思っちゃったんだ。
「し、『幸せをまいて歩くネコ』だよねぇ?」
「……有名な劇だ。知らんネコの方が少ないだろうて」
「そうだな。俺も見たことがある」
4匹はそれぞれに納得した。だけど、
「いや、俺は知らんが」
「俺も俺も」
というサビネコ兄弟に、そんなことがあるのかと再びぎょっとしたよ。
「残念だけどここではね、知ってるネコの方が少ないみたいなの。だから君たちがそういう反応してくれて私、とっても嬉しいわ」
リーディアはそう言って柔らかく微笑んでから、
「じゃあ本題」
とまた雰囲気を変える。4匹の子ネコとサビネコ兄弟だけでなく、黙々と食べ続けていた風ネコさままでが顔を上げた。口はモグモグしてるけど、その食べ物はどこに消えているんだろう。
「マイケルくんたちは本戦受付会場で流れた放送、聞いたかしら?」
「……あのぉ、地核の神さまが何か失くしたって言う話ぃ?」
「そう、それ。それね、神さまたちはあなたたちが盗んだと思ってるみたい」
「でぇ!? なんでまた!?」
驚こうとした4匹だったけれど、なぜかハチミツさんに先を越されてしまった。
「どうやら予選通過があんまり速かったかららしいの。あれを見て『あの速さには何か裏があるはずだ』って思われちゃったみたい」
「いっぱい練習しただけなんだけど……」
そんなこと思われるなんて、と残念な気持ちに沈む茶色いマイケル。だけど虚空のマイケルの頭は素早く回転していたようだ。
「いや待ってほしい。それ以前に順番があべこべだ。俺たちが地核の神と会ったのは本選受付会場での一度きり。それなのに予選がどうのと言うのは、話の筋がおかしいと思うのだが」
『まー、神だしなー』
テキトーな一言だったけれど、妙に納得できてしまうところが困る。
「ううむ……だが、仮に神たちがワシらの犯行と思っていたとして、どうしてここに辿り着くまでに『返せ』と言ってこなかった? そうすればすぐに無いと分かって誤解がとけただろうに」
『思い込みがはげしーんじゃねーのー?』
全部それっぽく聞こえてしまう。茶色いマイケルは風ネコさまの前にデザートのプリンを置いた。少し静かにしててもらおう。
「あ、でも大空ネコさまたちとは会ったよね」
「あの時たしか、持っているかどうかを大空ネコさまが聞いていたような気もするな」
「だがあれらはもう諦めたのではないのか?」
「いやぁ、勝負に勝ってからとかなんとか言っていたからぁ……」
「また来るということか」
だんだんと輪を小さくして険しい顔をする4匹にリーディアは、
「それに加えて雲の神の方でも怪しい動きがあるの。こちら側からも狙われてると思っていた方がいいわね」
と追い打ちをかけた。絶句する子ネコたち。そこに虚空のマイケルがポツリと、
「力づくだとすればまずいな」
と言う。それを聞いて茶色いマイケルは「あっ」と思ったよ。
そう、ティベール・インゴットだ。
持ってないよ、と言って信じてもらえるなら苦労はしない。きっと荷物を全部出せと言われて一つ一つ確かめられるんじゃないかな。茶色いマイケルは別に裸にさせられようが構わない。それで誤解が解けるのなら喜んで真っ裸にもなれるよ。神さまと争うのは避けたいからさ。
だけどティベール・インゴットを見せて『はい、確認しました』と言ってくれる神さまたちとは思えなかった。絶対に『これはなんだ?』と興味を持ってチョチョイと触ってくるに違いない。下手をすればペロペロ舐めるかも。そうなったら……。
茶色いマイケルは4匹と目を合わせてしまわないようにぐっと堪えた。
「んー……ちょっといいか? その大空の神ってのはマルティンとだべってるアレのことだろ?」
「え、マルティンさんのこと知ってるの?」
「ああ、このレースのこと色々詳しそうだったから1匹でいるところをとっ捕まえたんだ。そん時、神ってやつはネコに手出し出来ねぇって言ってたぞ? だったら『力づくで何かされるかも』って心配はいらないんじゃねぇか? レースが全部終わってから持ってねーって言や済む話だろ」
「あぁそれぇ、確か風ネコさまも言ってたよねぇ」
どうなんだろう、とみんなの視線がプリンをむしゃむしゃ食べている風ネコさまに集まる。だけどいっこうに顔を上げる様子が無かったから、茶色いマイケルはプリンの乗ったお皿をすすすと手前にずらした。『あー……』と残念そうにする風ネコさまは、一応話を聞いていたらしい。
『前も言ったけどよー、力のつえー神は手は出して来ねーぞー』
よかった、と息をつく茶色いマイケル。マタゴンズや他のネコたちだけでも手に余るっていうのに、神さまたちにまで出て来られたら今度こそ打つ手が無くなっちゃうからね。ただ、話には続きがあった。
『ちょっかいかけてくるとしたらー、細神のやつらだなー』
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