(145)12-3:不安の欠片

***

 どうして自分だけが残っているのか。

 その理由を求めるように、茶色は書斎にひろがる星々の間に視線を彷徨わせていた。すり寄ったマークィーが、1匹になってしまった子ネコの匂いを不思議そうに嗅いでいる。答えを知っていそうなボクが何も言わないんだから、心細くもなるはずだ。

 けっして面白がっていたわけじゃない。伝えたいことがあって残ってもらったんだ。だけど今にも泣いちゃいそうな自分を前に、ボクは慌てて呼びかけた。

『出ておいでよ』

 すると、首をかしげた茶色のパーカーフードの中身がモゾモゾと動き、“屈曲した背景”がひょっこりと顔をのぞかせる。

『ほら、そんなところにいたら、茶色が帰れないよ』

 肩に手をつき、こっちをチラチラとのぞき見するのは、風ネコさま。

 風ネコさまと顔を合わせるのは久しぶりだった。“前回レースの茶色”の中にその姿はあるけれど、“いつかの風ネコさま”とはずいぶん長いこと会っていない。ずっとまともに話せる状態じゃなかったからね。ひゅるりと身を揺らして飛んでくる神さまを見たら、ボクはその頭に手を伸ばさずにはいられなかったよ。撫でると肉球を押し返し、頭をぐりぐりと擦り付けてくる。視線は合わないようにしていた。空いてしまった時を埋める一言目を探していたんだ。そうして、うだうだしていたのが良くなかったらしい。

 ボクたちは突然、頭を叩かれて宇宙にひれ伏した。

 周りに浮いていた『世界の大時計』が一斉に距離をとり、星たちも公転を早送りして逃げてしまう。

『話は終っているのよね』

 足音もたてずに歩いてきたのは女神さまだった。ボクは慌てて、

『あ、ごめんなさっ、まだ言ってな――』

 と、引き止めようとしたんだけれど、ピシャッ、と氷で足元に線を引かれてしまう。とりつく島もない。

 白のユキヒョウは茶色のそばへ行くと、しっぽで背中を示した。

『あら、泣いているわけではなかったの。乗りなさい。送っていきましょう』

「……帰れるの?」

『すべて終わったんだもの』

 虚ろに目を洞にしていた茶色は、みるみるきらめきを取り戻し、大喜びで女神さまに駆け寄った。振り返らずにじゃあねと言いそうな勢いだ。

 まいったな。

 氷の線の向こうに2匹を見ながら、ボクは唸り声を噛み殺す。

 このまま帰してしまうのはまだ早いんだよなぁ。だけど呼びかけると凍らされちゃうし……。

 どうしたものか、と考えていたところ、女神さまの視線が動いた。ふよふよと前に出てきたのは風ネコさまで、『あのよー』と語尾をかすれるまで伸ばすと、

『ごめんなー』

 と、言って、ペコリと頭を下げた。

 いかにも風ネコさまらしい言い方ではあったけれど、今はすべての記憶を取り戻した神さまの言葉なんだ。その重みは普段とは比べるべくもない。それを感じてか、茶色はわざわざ正面に向き直ってから、「ううん」と頭を大きく横に振って、

「ボクこそ、ごめんなさい」

 と耳まで伏せたよ。そして、どうして謝られたのかが分からず首を傾げる神さまをまっすぐに見て、

「ありがとう、風ネコさま」

 と、小さく手を振ったんだ。

『さ、行くわよ』

『あ……』

 余韻を味わう暇も与えてもらえず、話し足りなそうではあったけれど、彼らの別れはこれくらいのほうがいい。離れがたくなるだけだからね。

 ただ、ボクの場合はそうもいかないんだ。たとえボコボコにされたとしても、言わなきゃいけないことがあった。ボクは2匹がクスリと笑いあったその一瞬の隙を見つけて、

『願いの代償』

 そう口にした。女神さまに鋭くにらみつけられてヒヤヒヤしたけれど、その一言で十分だったらしい。茶色は頭の片隅に置いてあったものをつつかれたような顔をしてこちらを向いた。

 ボクはできる限り平坦な声で言う。

『“あの部屋”でのこと、覚えてるみたいだね。ボクたちが空へ行くのにかかった期間はひと月だ。それは灼熱や果実と比べても長かった。あきらかに望み過ぎたんだ。つまり、何かしらの代償を払わされているはず』

 揺れる瞳はすがりつくよう。

「なにが、とられているんだろう」

『分からない。ひとつ言えるのは、表の世界ではボクたちにとって大事ななにかが無くなってるということだけ。だから――』

 ――覚悟はしておいて。

 ボクはそれだけ言うと、笑みをつくって手を振った。

 白のユキヒョウは深くため息をついたあと、立派なしっぽで茶色を持ち上げて、その背に乗せた。なにか言いたそうな顔をしていた茶色を、女神さまは待ちはしなかったよ。しゃがみもせずにタッと跳ねると、『鉢植えの中の大森林』へと飛びこんだんだ。

 見送りを終えたマークィーがこっちを向いて、『きゅぅぅん』と非難がましく鳴いている。風ネコさまが凍ったボクのしっぽをなめていた。

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