(135)11-4:迷い込んだネコたち

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 その来訪者ネコは、窪みの中をのぞき込むなり、音を立てて舌なめずりをした。

 茶色いマイケルはひざを抱えたまま後ずさり、雪をかぶった冷たい壁に、背中を預けた。怖くてすぐには立ち上がれなかったんだ。思い出したように足の爪痕が痛みを訴えていた。

 サビネコ兄弟はサッと立ち上がると茶色の前に飛びだした。むき出しの背中は広くて大きいけれど、相手の攻撃方法を考えると不安は拭いきれない。

「おいおい、入ってくるなら挨拶くらいしろよなぁ」

 軽い調子で余裕を見せるハチミツさんは半歩前へ出て、逆にコハクさんは半歩下がって構えをとった。両手足の爪が出番を待っている。

 呼びかけられたのはトムだ。丸目のサングラスにフライトスーツ。ベストにはたっぷりと物がつまっているらしく着ぶくれしている。ネコヘルメットの耳の部分には音を聞くための穴が空いているけれど、ハチミツさんの軽口に応える素振りはなく、押し黙って窪みの中を見渡し、ニタリと歯を見せていた。

「おいチム、見てみろよォ」

 遅れて登ってきた相方ネコも顔をのぞかせるなり「ハァ……」と生温い息をはき、満面に喜色を浮かべて笑った。

 ガシャン、というのはまとった装備を外す音。2匹は窪みの中に立ち入ると、重厚なベストを脱ぎ捨て、ずれたネコヘルメットをかぶり直す。

 茶色いマイケルは身を固め、ハチミツさんもいよいよ構えをとった。ここが星の芯ということを考えると、壊すのはさすがにまずいかもしれない。相手が攻撃を仕掛けてくる前に、体当たりでもなんでもして外に追い出さすほうが賢明か。と考えだしたその時だ。トムの目玉がポンと飛び出した。

 いや、丸目のサングラスがパカッと開いたんだ。そして黒いレンズの奥の目があらわになる。そこにあったのは、子ネコみたいにキラキラと輝くきれいな瞳だった。

「雪だ! 雪だぞチムゥゥゥゥウ↑!」

「うおおおい! 何十年ぶりだあああ!?」

 2匹は左右の壁側の、まだ誰も触れていない雪に向かって頭から突っ込んだ。うっすらとした雪だから、思わず顔をしかめたくなる鈍い音が響いたけれど、遊び慣れているのか、ペンギンみたいにお腹で氷の上を滑りだす。

 すぐさまサビネコ兄弟は、「いったい何の用だ」と大声で呼びかけた。けれどトムとチムには届かない。

 壁にへばりつき、雪に顔を埋めて苦しんでみたり、逆立ちをしながら足元の氷に頬ずりしてペロペロなめたり、天井の雪を落とそうとジャンプして下敷きになったりと、暴れまくっていたよ。

 子ネコでも窮屈な場所なのに、細長い身体を折りたたんでまで雪と氷の冷たさを堪能していた。手がつけられない。

 ハチミツさんは振り返り、「こりゃ待つしかないな」と肩をすくめた。

「おいトムやべぇぞ、そろそろ時間だ!」

 しばらく見ていると、チムがいきなり叫び声をあげた。ひざを抱えて転がるトムを、黒光りする硬そうなブーツで2度蹴っとばす。

 蹴っとばされたトムは「しまったァァァア」と声を張り上げながら、名残惜しそうに雪にかぶりついたよ。ようやく落ち着くと、フライトスーツについた雪をバズバス叩いて落としていた。

「わりィな、突然来ちまってよォ。いやァ、まさか帰る前に雪で遊べるとはなァ」

 今までのことなんて無かったみたいに親しげで、サビネコ兄弟は毒気を抜かれたように顔を見合わせる。

「え、帰るの?」

 茶色の声は少しだけ裏返っていた。

「おぉ、いたいた、茶色のチビちゃん」

 ピタリと視線が重なり、耳が跳ね上がる。弾けた声とはちがって瞳はやけに穏やかで、胸の奥がざわついてきた。トムは何か言い出しかけて口を閉じ、それからこんな話をし始めた。

「ここはよぉ、居心地良くて刺激にゃ事欠かねえし、まだまだ遊び足りねぇってのもホンネなんだがなぁ」

 思い出しちまったんだよ、とトムが言い、それにチムが黙って頷いた。

「お前とケマールのダンナがやり合ってるのを見てたらよぉ、ふっと懐かしいカンジが湧いてきやがったんだよなぁ」

 そのカンジってのが何かは分かんねえけど、と言いながら思い出を抱きしめるようにサングラスの奥のまぶたを閉じる。

「俺たち、もう長ェことここにいるけどよォ、こんなこと今まで一度も無かったんだぜ? 昔のことなんて忘れたままでも良いと思ってたのにィ、でも、いっぺん思い出しはじめたらどんどん濃くなっていきやがってなァ、気がつきゃもう抑えが効かなくなってた」

 それにコレ! とチムが雪をすくって宙にまき散らす。サラサラの粉雪がきれいに広がって、宝石みたいに光っていた。

「俺たちゃコレが好きで好きでたまんなくてよォ、昔はモグラみてぇに掘って潜って遊んでたなァ」

「そうそう、俺らの故郷はこの白いのがわんさか積もるんだよ。冬になると街はだいたい真っ白に埋まっちまうんだぜ? 雪で道ができたらその中を掘り進むんだ。悪ガキネコどもを率いてな」

「いっぺんやりすぎた事があったよなあチムゥ。地下街作ってやろうぜって張り切ってたらあちこちの道で陥没騒ぎになっちまって」

「あったあった! ブチギレた商店街のヤツらが放送ネコさんまで使って指名手配するもんだから森へ逃げたっけ」

「その森ってのがまたおっかなくてなァ、何匹かいた仲間ネコが『んぎゃー、コワイ』っつってみんな逃げ出しやがんの。そこで賢い俺は考えたってわけよ。『ここを攻略すれば地位は盤石だ』ってな」

 ぐん、と威勢よく胸を張るトム。ただ、後に続いたチムの声はやけにしんみりしていた。

「今思えばあれがきっかけか」

「だな。あいつら連れて森で迷ってここに来て、こっちに来てからもダチがたくさんできて……。いくらでも遊べる、まだまだ終わらねえと思ってたんだが」

 ひとしきり話して満足したのか、2匹は腰に手を当てて目をつむり、深くため息をついた。ぶ厚い手袋がギッと握られ、革の音が苦々しく響いたよ。

 茶色には、トムたちがそのまぶたの向こう側で何を見ているのかは分からない。ただ、どこか惹かれてしまう。

「おいトムよう! 輝いてんぜぇぇ!」

「おいおいそんなに褒めるなって俺はただ本当の――」

「ちげえよ、身体身体! 言うことあんだろ、さっさと言っとけって!」

 2匹の足元には光がまとわりついていた。白っぽい輝きは見る間に大きくなって身体を包み込んでいく。あっという間に首のところまで上がってきたものだから、トムはやっべえやっべえと言いながら、早口でまくし立てた。

「忘れちまってたもんを思い出したんだ。なんでここに来たか、なんでここに残ったか、頭ぁスッキリしてきたらようやく思い出してきやがった。ずいぶんと遠回りしちまったなぁって、俺ァ少しばかり悔いてんだ」

 だからよォ、とトムは茶色にひとつ頷いた。

「お前がもしここに残るんなら、“あん時の想い”を忘れちまわないようになァ。そうすりゃいつでも帰ることはできるんだから。俺らみてェにズルズル残るんじゃねェぞ? そんであとはあとは……あーもー、言いてえことは色々あったんだが思いつかねェェエ!↑ とりあえずアレだ!」

 2匹は声を揃えて、芯の通った声でお礼を言った。そして小さな猫になったんだ。

 それを見て茶色はひどく焦ったよ。ぎょっとして声をあげたサビネコ兄弟とはまた別の驚きだったと思う。とっさにこう口走っていた。

「ねぇ! ここに残ったら頭おかしくなるって本当なの!?」

 何を言っているんだと、言ってしまったあとで気がついた。だけど白い2匹の神ネコはイヤな顔をするでもなしに、

『『俺たちを見ればわかるだろ』』

 と、得意満面で言葉をのこし、しっぽを振って消えてしまったんだ。背景に溶け込むように消えていく身体。白昼夢を見ている気分だった。それから、いなくなった分を埋めるように空気が流れ込み、ひんやりとした風が毛を撫でた。

 静けさに耳が慣れるまでどれくらいかかっただろう。

 舞っていた粉雪はすっかり落ちていた。たくさん足跡だけがのこっている。

「なんだったんだアイツら……言うだけ言って」

 しばらくしてハチミツさんが口を開くと、コハクさんは半笑いで肩をすくめた。

「頭、おかしくなるのかならないのか。結局どっちなんだろうね」

「まったくだぜ。だいたいあんなのに聞くのがまちがい……って、なんだ茶色チャン。尻が湿っちまったか」

 振り返ったハチミツさんが目を丸くする。

 どうしてかは子ネコ自身にも分からない。なんとなく身が軽くなり、気づけば立ち上がれていたんだ。

 いつでも帰ることができる。

 その言葉が強く、茶色の耳に残っていた。

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