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祭壇は、星の芯を背景にして子ネコたちを待ち構えていた。
それは光り輝く巨大な猫の像。輝き方が同じだからか、離れて見ると地核ネコさまが横たわって寝ているように見える。その背中には長くて立派な末広がりの階段がかけられていた。階段の左右には猫や獣の氷像が点々とあり、4匹が通るのに合わせて、あくびをしたり威嚇をしたりと勝手気ままに動いていた。
誰も言葉を発さないままたどり着いた頂上で、誰かの息をのむ音が聞こえた。
その大きな天秤は、聖秤(せいしょう)フェリスと呼ばれているらしい。
錆びた鎖で吊るされた左右2つの皿は、向かって左に大きく傾いている。その皿の上には1匹の白猫が寝息もたてずにうずくまっていた。茶色いマイケルのひと回りは大きな白猫だ。時を止められているのか呼吸はしておらず、生きているのか死んでいるのか分からなかった。ゾッとした。
白のユキヒョウは、聖秤フェリスの手前に置かれた、子ネコがちょうど4匹くらい入りそうな杯(さかずき)の前で、
『天秤(てんびん)を何だと思っているのかしら』
言うなり、山と積まれたお供物らしき品々(ネズミや蛇や鳥の死骸や、ねこじゃらしなどなどが時の止まったまま置かれていた)を凍らせるなりしっぽで砕き散らしたよ。シャン、と玲瓏な音がして空気がきらめいた。
女神さまがこちらを向くと、子ネコたちの意識は自然と茶色いマイケルの荷物袋へと注がれていった。促されるようにそろそろと取り出したティベール・インゴットは、この秤と呼応するようにあわい光を放っている。そこに象られた2匹の猫たちは、隙を見せれば逃げ出すんじゃないかというくらい、黄金色の身体をうずうずさせていた。
『では尋ねます。分銅を置きますか、それともやめますか』
弾かれるように頭を上げた。白のユキヒョウは堂々としていて試すような空気はまったく無い。
「そんなのぉ、置くに決まってると思うんだけどぉ」
何か見落としはあっただろうかと果実が目でみんなに問いかける。
「神々の企ては止めたし、誰も失わせずに後悔を促した、最良の形だったはずだが……」
『ええ。その分銅を置けばあわあわの大渦は終わります。私が保証しましょう』
みんなの眉間からシワが消えていく。ただ、と白のユキヒョウが冷たく言った。
『渦は大きくなりすぎました。“赦し”は壊れた世界を癒やすでしょうが地形だけでなく、“時”にも修復を強いるはず。それによってここに至るまでの記憶は失われます』
修復に関わるすべてのネコの、記憶が書き換わる。
声をつまらせ、マイケルたちはそれぞれに絶句した。虚空はアゴに手を当て思案に入り、果実は痩せたような顔で子ネコたちを見回す。灼熱と目を合わせた茶色いマイケルは、言葉の意味を理解しないうちに、その目から逃れるように女神さまを向いていた。
『ここに残るという道も選べます。もう一度レースに挑み、もう一度神々と対峙をし、その上で特別賞をとることで、ここでの出来事を忘れずに戻ることができるでしょう』
白のユキヒョウは付け足すと、
『決めるのはあなたでもいいし、あなたたちでも構いません』
と、その場に座り込む。『決まったら起こしてちょうだい』とも言って。
困惑に陥った4匹は、しばらくのあいだ闇の中にでも閉じ込められたように視線をさまよわせていたよ。
「一考の余地は、あるのか」
灼熱のマイケルが落ち着いて考えを声にする。
「でもぉ、大渦が……」
今回力を貸してくれた神ネコさまたちが、次も力を貸してくれるという保証はない。次はもう渦に巻き込まれたあとかもしれないんだ。果実の心配に重ねるように虚空も言った。
「マルティンさんや、他のネコたちはどうなるのだろうか。すべて忘れてしまっては……」
みんなヒゲを垂れてしまう。
「気持ちは、どうなのだ?」
灼熱のためらいがちな問いかけに、
「ボクは……覚えていられないっていうのは……」
茶色いマイケルは言葉を濁したまま、助けを求めるように果実を見た。
「オイラは……正直にいうとぉ忘れたくはないよねぇ。機会があるんだったらぁとは思うんだけどぉ……」
「ダメだな」
虚空の声にはたっぷりとため息が混じっている。
「国が、世界が、神々が、これから先どうなるのか考えてみても想像が及ばない。分銅を置く置かないどちらにせよ、時の修復の影響は俺たちネコの手を大きく離れてしまうだろう。ならば灼熱の言うとおり、俺たちの気持ちだけで判断すべきか」
言葉が途切れると、風が吹いていないのが気になった。凪いだ空気はよどみに似ていて息苦しく、上げても上げても視線は下へいく。誰も目を合わせようとはしなかったよ。
「頭、おかしくならないかな」
茶色の言葉には、一斉に疑問符が向けられた。慌てて説明を加える。
「小雨ネコさまが言ってたでしょ? 長くここにいると気が狂っちゃうって」
「すぐにおかしくなるわけでもあるまい」
「で、でもぉ、それは結構重要だよねぇ。残ってるネコたちに聞いてみたほうがいいかもぉ」
「精神が正常に保たれるのなら、ここに残るメリットは少なくないな。先の出来事を知っているというのはこの上なく有利だ。キャティのいない今、広場に集められたネコたちに有益な情報を与えて味方に引き入れることも出来るだろう。そうすれば大渦の件も、特別賞の件もかなり楽になるはずだからな」
そうかもぉ、と顔を上げる果実に、虚空も微笑みを返していたよ。茶色いマイケルも吸い込まれるように身体ごと向き直り、話に加わった。ここに来てからのことを振り返り、「ここでこう動いていれば良かったかも」と頭を巡らせたんだ。
みんな意識が次のレースに向きはじめていたんじゃないかな。だから「じゃあ」という一言を誰かが口に出すのはもう間もなくだと思っていた。
「たしかにな」
けれどただ1匹、腕を組んでしかめ面を崩さずにいた灼熱が口を開くと、空気は一変する。
「諦めがたいことはある。こっ恥ずかしい言い方になるが、ワシらはここまでの道のりで手放し難いものを手に入れ育んできた。お前たちの顔を忘れるなど、つゆほども考えておらんかったしな」
だがな。と苦渋が滲んだ。
「最良を求めた果てに、何が待っているのかを考えると、なぜかキャティの最後の言葉がチラつくのだ」
――泥はねぇ、より美しい方へと流れていくのさ……いずれあんたたちにも――。
「あの言葉の意味はよくわかっておらんが、考えると恐ろしくなる。完璧を求め続けた果てに、またわずかな瑕疵を見つけるのではないかと思ってしまうのだ。その瑕疵を今度は見過ごせるだろうか。機会はあるからとまた……そこから先は泥の沼なのではなかろうか。それは抜け出せるのだろうか、とな」
破れて血まみれの頬を、吊り上げて笑ったキャティの顔が思い起こされた。切り裂かれた足の傷がずくずくと痛んだよ。
「茶色、お前の言った通りだ」
思わず「え」と肩を跳ね上げる。
「ワシにはな、まだまだ表の世界で見たいものがある。確かめたいこともな。冒険をするために旅に出てきたのだ、忘れておらん。これが終わったのならば、変わった世界を生きていきたい。たとえ記憶がなくともワシならそう動くはずだ。だから――」
――ここに心を縛られている暇はない。
そうだな、と虚空のマイケルも後に続いた。
「やり直すというのは、神々にさらなる苦しみを強いることでもある。国でもここでも身に余る恩恵にあずかっておきながら、それでは心苦しいしな」
寂しげに微笑む2匹に果実が混ざり、茶色いマイケルも同じように頷くしかなかった。腕で目元を隠したからか、3匹はその肩をポンと叩いたよ。ただ、茶色の目に涙は浮かんでいなかった。
白のユキヒョウが立ち上がり、長くて太いしっぽを泳がせ、聖秤フェリスの前にある低い階段へと子ネコたちを招いた。
いつしか広場には、長かった厄災の終わりをひと目見ようと大勢の神ネコさまたちが詰めかけていた。期待がトゲのように背中を刺し、その低い階段を1段、また1段と登るたびに息が苦しくなっていく。緊張で、すぐ近くにいるはずの子ネコたちの声さえ聞こえなかった。
女神さまが身体を避ける。
ティベール・インゴッドにみんなの熱が集まってくる。
子ネコは罪過の分銅をつまみ上げ、片側に寄った天秤の皿の上へと手を伸ばしたよ。肘をまっすぐに伸ばして分銅を掲げ、手首をじわじわと下ろしていく。インゴッドと皿との隙間が狭まるにつれ、肩から先が震えて肘が曲がった。足の傷がひどく疼いた。
どよめきが起こった。
誰かが『静かにしろ』と周りに注意して一旦は収まった。けれど、どれほど経ったのか。ふたたび起こったどよめきを、止めようとする者はいなかった。
「……茶色ぉ?」
恐る恐るという声に、茶色いマイケルは錆びた歯車みたいに、骨を軋ませながら振り返ったんだ。その表情を見た子ネコたちの顔は酷いものだった。クラウン・マッターホルンで心の痩せる2択を迫られたときよりも、よっぽど酷い。
どよめきは規模を増し、だけどそれ以上の速さで遠ざかっていく。そして子ネコたちのいるその場所は世界から切り離された。茶色いマイケルは足元に、
――坊やぁ。
しわがれた囁き声を聞いた。
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