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儀式は神聖である。
神聖であることは美しく、いっぽうで美とは欠けたもののことをいう。
その記憶はいたるところが欠けていた。
――まぶたが開かれる。
見つめていたのは右の義手。親指、猫さし指、中指の3本が鉤爪のように曲がり、手のひらには植物のトゲが乗っていた。
左手でトゲをつまみ、鋭い先端をかざすと、その先には1匹の子ネコの姿が。薄明かりの室内で、服を脱がされ身じろぎもせずにうしろを向いて立っている。虎を彷彿とさせる模様はやわらかな輝きを放ち、場に静謐な空気をもたらしていた。
止まったような時が流れたあとで、左手はゆっくりと子ネコの首筋へと近づいていった。そして張りのあるヒゲが、音もたてずに跳ね上がった。
暗転。
再び、まぶたがゆっくりと開かれた。
同じ部屋だろうか。華やかな織物を敷いた机の上に、女性ネコが横たえられていた。その口元にはうすい布がかけられており、ふわりふわりと上下している。しかし一瞬、大きく吹き上がったのを最後に、穏やかな表情を隙間なく覆いつくした。
よく研がれた刃物が目の前にかざされた。刃の鏡面は荒くゆがんでいて、使用者ネコの顔をはっきりと映さない。
カラン、と小さな音がした。真っ白で小さなものが金属のボウルを転がって、底にたまった他の歯に当たって止まる。嫌になるくらい軽い音だった。どうやら時間が飛んだらしく、女性ネコの姿はどこにもない。かわりに、質素な台の上にいくつかの山ができている。
義手に支えられた大腿骨は白く輝き、つややかな水がその上を静かに滑っていった。張られた水の中に、鮮やかな赤色がゆっくりと渦をまいていく。
ネコはしばらくのあいだ、きれいに洗われた右の義手を、微かな震えもない右手首の先を、じっと見続けていた。
美とは欠けたもののことをいう。しかし何が欠けているのかが彼には分からない。
***
2匹は、空中で揉み合いながら道を外れて落ちていく。
茶色いマイケルは血と膿に塗れたケマールさんの顔を両手でつかみ、押しつぶすように声を震わせた。
「なにをしたんだっ!」
子ネコが頭を叩きつけると、低い呻き声が聞こえた。
「あんな……あれが大切なネコに、あれが家族ネコにすることなの!」
「神聖だと、儀式なのだと言っているだろうがぁっ」
「なら思い出してよ、どんな顔をしていたの!」
「まだ言うっ! 穏やかだったではないか、眠るようだったではないか」
子ネコの肩には爪がみっちりと食い込んでいた。ケマールさんの顔はもうネコではない。
「ちがう」
「ころすっ!」
「あの刃物にはちゃんと映っていたはずだ。どんな顔をしていたのっ、あなたの顔はっ!!」
その顔を思い出し、茶色は獣のように声を歪ませた。
直後、ケマールさんが泡をふき、白目をむいて子ネコの肩口に噛みつきかかる。火傷しそうな熱と痛みに襲われて、身体はひといきに反り返った。
離れたところで他のマイケルたちが叫んでいたよ。
背中に強い衝撃を受けた。下をはしっていた別の道に転がり落ちたからだろう。ただ、道というにはあまりにもひどい坂道で、下へ下へとまだまだ落ちていく。
『いい顔になってきたじゃないか坊や』
錆びたノコギリのような声が、拡声器ごしに脳を揺さぶった。いつしか彼女たちの近くに来ていたらしい。
茶色いマイケルは痛みで視界の狭まる中、声のする方を思い切りにらみつけた。車はまだ遠い。
『ヒッヒ。ケマールの芯をとったのかい。甘ったるいナヨナヨ坊やがずいぶんとまぁ男前な顔つきに。よしよし』
そうだねぇ、とマズルの持ち上がる音がした。
『坊やにも再教育をしてあげようか』
「そんなことするも――」
『連れてきな!』
するとたちまちケマールさんの動きが切り替わる。首のつけ根に食らいつき、2、3度子ネコを振り回したと思ったら、親ネコが子ネコを運ぶ姿で車に向かって駆け出したんだ。
どうして、という言葉はうまく出てこなかった。
『かわいそうにねぇ。そんな世間知らずで頭の悪い倫理坊やに耳を貸すから混乱するんだよ。いいかい、価値ってのはねぇ、他ネコが決めるものなのさ』
道が大きく右に曲がり、茶色を呼ぶ灼熱たちの声がまた遠ざかる。
車との距離はぐんと近づいて、静かに前を見て運転するキャティの姿が、ぼんやりと見えてきた。トムとチムは窓から半身を乗り出し話に耳を傾けている。
『考えてごらん。世界に自分1匹だけしかいないのなら、価値なんて概念はいらないのさ。周りになにかある、誰かがいるから関係が生まれ、互いに価値を見定めるんだ。ケマール、あんたにとってそのパンガーは、価値の無いものかい?』
唸りを聞くと、『そうだろうさ』と含みのある声で言った。
『価値があるからこそ、おまえたちは存在することを許されてきた。だけどその価値、どう扱うね。うまく扱えているかい?』
ゆだねな、と声がとろけた。
『価値は移り変わるものなのさ。死んで産まれてまた死んで、新しい関係性が世界に生じるたびに、価値もまた変わっていくんだよ。この入り乱れる関係の中ではねぇ、価値を上手に使えるネコが必要なんだ。でなきゃ翻弄されて身ぐるみ剥がされ痛い目を見る。せっかく素晴らしい価値をそなえていても、使い方をしらなきゃ無価値と変わらない。示す時を間違えたのならその価値は、ドブに捨てたも同然なのさ。
だから価値の扱いを知る本物の主(あるじ)を見つけたのなら委ねるべきだ。認められることだけを考えていればいい。ケマール、お前には見る目がある、主を見抜くいい目がね。あの大帝国を選んだんだ、いい目を持っている。その時と同じことだよ。安寧に身をゆだねな。痛みに耐え、悩む必要なんてないのさぁ』
すかさず声を張り上げた。
「ちがうよ! 痛いのはイヤだけど、痛みを避けてちゃ分からないことだってあるはずなんだ」
『垂れるのは寝小便だけにしな』
軽口には構わない。聞いてほしいのはこっちのネコだ。
「傷は痛いよ、きっと辛いと思う。でも見ないとだめなんだ。痛いだろうけど我慢して!」
だって、と茶色は嗚咽を飲み込んだ。
「2匹は、耐えたよ」
子ネコは力の入らない身体を無理やりよじり、彼の懐に指の先をひっかけた。
「わかるでしょ? エイファさんも、チュルクくんも堪えたんだ。痛いのも怖いのも我慢して、そんなになってまで考えた。大切なネコのことを!」
あなたのことだよケマールさん。
その一言で獣の息が止まった。瘧のような震えが首の皮を伝ってくる。
「だったら! 傷の向こうを見てあげて。2匹が本当はどんな顔をしているのかを見てあげないと。そこにあなたの知りたかった答えがある。答えが聞けるんだ」
『ヒッーヒッヒ、直接聞きなぁ! 特別賞を取ればいいだけじゃないか、生き返らせてやればいい。取らせてやるさ、あたしがね。痛みもない、大切なものも戻ってくる。これでなあんの心配もないよ』
「それじゃあ、あなたの右目はつぶれたままだ。見えていないと繰り返す!」
だから、傷の向こうを見ないとだめなんだ。
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