###
ピッケが歩き始める前のことだったらしい。
そこは迷路街の中では一番高い建物で、屋上は見晴らしがよく、晴れた日には街がいつもの何倍もきれいに見えたって。
カラッとした空気の、すごく気持ちのいい日のことだ。
ひらひらと風に揺られる薄いシーツがたくさん干してあって、陽の光をいっぱいに受けて白く輝いている。石鹸のいい香りが風に乗ってそこらじゅうを遊んでいる。
泣きじゃくっていた小さなピッケを抱いて、お母さんネコはずうっと頬をくっつけていた。赤ちゃんネコよりももっともっと柔らかな、クリーム色の毛が心地よくって、じんわりと眠たくなったピッケは泣き止んだ。
お父さんネコはお母さんネコに、「疲れただろう、替わるよ」って声をかけて優しく肩を抱いた。
お母さんネコは少しだけ考えて、それからお父さんネコにピッケを預けたんだ。
身体から手が離れる間際、お母さんネコが口を開いた。何か言っているみたいだけど、声は出ていない。失ってたんだからね。
でも、それは歌だったってピッケは言う。
お父さんネコの腕に抱かれながら、聴こえないはずの歌をずっと聴いてたっていうんだ。
「そっちは危ないよ」
ゆっくりと離れていく後ろ姿に、お父さんネコが呼びかけると、お母さんネコは振り返って笑った。ただ笑っただけなのに、それは空よりも太陽よりもまぶしくって、ピッケは目を細めた。
ひときわ強い風が吹いた。めくれたシーツがお母さんネコの姿を隠した。影が見えいてた。瞬きをしたら、影は無くなっていた。
***
それはピッケの語った断片的な記憶。
もしかすると他の思い出と混ざっていてもおかしくはない。
ただ、ぽつぽつと、たどたどしく、その震える声から伝わってきた思いは、茶色いマイケルの瞳を激しく揺らしたんだ。
コメント投稿