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虚空のマイケルと名乗ったのは、アッシュグレイの毛をした子ネコだった。
知性を感じさせるエメラルドグリーンの瞳は茶色いマイケルを鋭く見据える。子ネコは大股一歩で近づくとすれ違うように横に並び、「大気の厚みを感じるんだ」とだけ言って背中を押した。
ぽん、とか、トン、とかだったら良かったんだけどさ、
ドン!
みゃっ、と鳴く暇もなく茶色いマイケルは扉の外にはじき出されちゃった。しかもその先って足場が無いんだ、空の上だったんだ。つい今さっき風に吹き回されてきたばかりなのに、こんなのってないよ。
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっ」
仰向けで空を見ながら放り出された茶色いマイケル。高ささえあれば身体をくるっと反転させて着地の姿勢を取るのは得意なネコだけど、こんなに高いと意味がない。
お腹に風を受けながら見下ろした景色には足場らしい足場はなくって、霞みたいな雲がうっすら広がってるだけなんだ。そうだ、大空の国なんだから絵本みたいに雲の上に着地できるのかも、なんて思って空中を掻いて雲に近づきしがみつこうとしたんだけど当然のようにズボッと突き抜ける。そりゃそうだよ。
あ、そういえばさっきの子ネコが空気の厚みとかなんとか言ってたっけ、それだ!
茶色いマイケルは空気に厚みを感じようとした。なかった。
泣き叫びたい気分だったけど風の抵抗でそれすら満足にできず、ただただ落下を続ける。そんな中、ふと声が聞こえた。
「今から俺が手本を見せるから、よく見てマネをしてくれ。あまり長いこと落ちているのは好きじゃないから、素早くコツをつかむんだ。いいか、3、2、1」
待って説明してと言っているヒマも当然なく、目の前に一瞬だけ現れたのは、空中でデッキチェアでにも座るように腕と足を組んだ子ネコの姿だった。それは本当に一瞬のことで、姿を捉えたと思った瞬間にまたすごい勢いで上に昇って行ったんだ。
いや、あの子ネコが空中で止まったのかもしれない。
突飛な考えだったけど、すがりつけるのなら何にだってすがりついてやる、とあのネコのポーズをマネしたんだ。デッキチェアに座って本でも読むみたいに優雅にね。
そしたらさ、
「えええ、止まらないんだけどぉ!」
それでもやっぱり止まらない。つかんだ手をポイと離された気分だったよ。空は青々として美しかったけれど、心の中は真っ暗さ!
「よし、まともに話の出来る状態になったようだ。では体の使いかたを教えよう。しっかり覚えてくれよ?」
キリッとしたその声は、頭の中に直接響いている。
「まず、”芯”を意識するんだ。腹の少し上あたり、手足、耳、しっぽ、それらすべてから最もバランスの取れた中心を見つける」
「ちゅ、中心ってそんなの、ちょ、怖いっ! お尻がゾクゾクする! 落ち――ちる――落――!」
「落ち着け、リラックスだ。リラックスすれば話ができるようになる」
「っていうかさっきのポーズ何だったの!?」
「あれは俺が一番リラックスできるポーズだ。君のポーズもなかなか優雅だったぞ? それより今だ。さっきの反転を見た限り、無意識のうちに芯を使っているようだがまだ意識が足りない。くるりと前に転がってみてくれ。その時、ほんのわずかな間だけギュッと力のこもる場所がある。そこに芯がある」
「転がれったってこんな何にもない空の上じゃ……」
「さぁ、早くしないとそろそろ街が見えてくるぞ」
落ち着き払った、それでいて急き立てるような声は、茶色いマイケルの身体をちょっぴり強張らせたよ。その時だ、身体が前に倒れかける。
「ええい!」
やけっぱちになったわけじゃないけど、似たような気分だったかもね。お腹に力を入れ、脚の爪先めがけて前に頭を振った。ぐるん、と視界が回り身体もそれについていく。そこに、
「芯だ」
と頭の中で声。
ピン、と耳を立てて感覚を研ぎ澄ませると、あった、確かに他のところよりも少しだけ強い力のこもっている場所がある。
「いいぞ。ではそこに思い切り力を入れて体を縦に伸ばすんだ」
茶色いマイケルは言われた通りに力を入れた。膝を伸ばし背筋を伸ばしシッポも伸ばした。すると、ぐるんぐるんと前転し続けていた身体が回るのを止め、頭の先から脚の先までがまっすぐに伸びたんだ。
「えっ、落ち方がゆっくりになって……」
「力の入れ具合を意識するといい。ギュッと握手をするような気持で芯を締め付けるんだ。そうすれば」
「止まった!」
「なかなか覚えがいいな。あとはその加減によって浮き沈みが出来る。ちょうどいい。少し下まで来過ぎたから上に浮き上がってみよう」
上と言われて視線を顔を上げた茶色いマイケル。太陽はギラギラと辺り一面を照らしているんだけど、見た目よりも眩しくはなかった。おかげでその辺りの様子がよく見えたよ。
「え、あんなところに!?」
驚いたのなんのって。芯を探すのに夢中になってたから気づかなかったのかもしれないけどさ、見上げた先にはたくさんの建物がふよふよと浮かんでいて、そこには物凄い数のネコたちが右とか左とか上とか下とか関係なく、飛び回っていたんだからね。花の周りをひらひらと飛ぶチョウチョみたいに、建物を見て回ってる。お店かな? お店っぽいよ。
なんだか不思議な光景すぎて、思わず芯に力が入りすぎちゃった。そしたらさ、滑るように体が上に上がっていくんだ。ああなるほど!
「住まう場所は違ってもネコはネコらしい、バランス感覚が抜群だ」
さて、と虚空のマイケルは茶色いマイケルの前に並び、
「空移動の基本を覚えたばかりだが、一緒に来て欲しいところがある。ろくに観光もさせてやれず申し訳ないと思うがこちらも切羽詰まっているんだよ。せめて俺たちの誇るこのシエル・ネコ・バザールでも見ながら行こう」
ここは大空の国シエル・ピエタ。
虚空のマイケルは生真面目そうな顔で、胸を張って国の名前を声にした。
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