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茶色いマイケルは、夜明け前の空がひそかに光を蓄えはじめたところを、ぼんやりと眺めていた。まばらに立った白樺の木が、地面にうっすらと縞模様の影を落としている。
どうして秘密基地にいるんだっけ。
そこに考えが及んだとき、足裏で砂粒のこすれる音がした。
「あ!」
声は林の中をひろがり、ツンと冷たい空気を震わせる。その響きが止むのを待たずに、茶色は秘密基地のある林をあとにした。
覚えてる。覚えてる。覚えてる。
坂道を転がるように下りながら、何度も何度も声に出す。目の乾きなんて気にしていられなかった。
「おぼえてる、おぼえてる、おぼえてる!」
記憶が全部残っていたんだ。
灼熱のこと、果実のこと、虚空のこと、ピッケのこと、神さまたちのこと、そしてあわあわの世界のことも全部覚えている。
真夏に作った雪うさぎでも持って帰るような気持ちで、とにかく足を走らせた。いまならまだ、いまならまだ、と坂を下り終え、突き当りを左へ曲がり、家の前の通りに入っていく。
空には星が残っていた。ご近所ネコさんたちが起きるのはまだ先だろう。早起きの壁塗りネコさんが、通りの奥の曲がり角から顔をだして、ニコッと笑って手を振るのが見えたくらいだ。つまりみんな家にいる。
間に合う。間に合う、間に合う!
懐かしい玄関の、その1つ目の扉をバンと開け、2つ目のノブをひねりながらタックルして飛び込むと、中は暗かった。けれど待ってはいられない。身に染み込んだ動きでテーブルをよけ、家の奥へと全力疾走し、お母さんネコの寝室に飛びこんだ茶色は、
「たっ」
と、言ったところで動きを止めた。
ベッドの上に、布団がなかったんだ。小鳥の羽ばたきが耳に入ってこなければ、2つ3つ歳をとるまで突っ立っていたかもしれない。
気を取り直して隣の部屋に飛び込むと、布団にはビニールが掛けられて、ベッドの隅に畳んで置いてあった。
「あ、あれ? おか――」
家の中はくまなく探した。空き部屋も、キッチンも、トイレもお風呂も天井裏も。子ネコくらいしか入れないような隙間も奥まで探したけれど、見つけたのはカラッカラに枯れたねこじゃらしと、朽ちた虫の死骸だけ。茶色は綿ぼこりにまみれて咳をした。ホコリが宙を舞い、鼻の奥を突き刺してくるんだ。
家を出てから約3ヶ月。
それにしても荒れている。
自分の部屋にホコリが積もっているのは仕方がないとして、リビングや台所まで、灰でも降ったように白くなっていた。バタバタと歩き回った自分の足跡がそこかしこにうるさく浮かんでいる。いつもは整頓されているダイニングテーブルのイスは倒れていたし、本棚は絵本を吐いていた。
誰か、知ってるネコに聞けば。
隣の家に行き、玄関フードに手をかけてひらく、その直前でためらった。出てきたご近所ネコさんは茶色を見てどんな顔をするだろう、何を知らされるのだろうと考えると……手がひっこんだ。
周りにネコの気配はひとつもない。さっき見かけた壁塗りネコさんも、見あたらなかった。
――******
ここで夜明けを待って、チルたちのお母さんネコを訪ねてみよう。
坂道を登りなおした茶色は、乱れた息を整えて、ご先祖ネコさまの丘に広がる藍色の静寂(しじま)を吸い込んだ。頭の中がすっきりと澄んでくる。
ここから街を眺めていれば、そのうちお母さんネコの行き先に思い当たるだろう。
ぼんやりと考えながら、ご先祖ネコさまのお墓に手を合わせていると、風だろうか、耳の裏を何かにすうっと撫でられた気がした。毛を抜かれるほどの痛みはなくて、くすぐったいような、心地良いような、おかしな感覚だった。
風ネコさまのイタズラかな、なんて思いながらカリカリと耳を掻き、家のお墓のほうへと振り返ったところで、眉をひそめる。
なんだろう。
家のお墓に何かが置いてある。首をかしげながら近づいていき、それが何なのか、はっきりと目に見えたところでだった。茶色は、一気に地面を蹴って飛び出した。視界に入ったものが茶色の毛を逆撫でたんだ。
「なんでっ、だれがっ」
お墓に花が供えられていた。
打ち払った花々は、編みカゴから飛び出し、宙を舞うように落ちていく。散り散りになる青い小花が、暗い中でもやけにくっきりと目に映った。
花が、あまりにも鮮やかで、ぞくりとした。
夜はまだ明けていない。辺りに靄(もや)がかかった様子はないし、他の家のお墓も、冬枯れの木々もはっきりと見える。見間違いかな。そう思ったところでまた、さっきと同じ感覚に襲われた。
頭の中を、何かがすうっと通り過ぎていった。
茶色は耳裏を手で押さえ、うしろに誰も立っていないことを何度となく確認した。
ちがう。毛じゃない。毛じゃない何かがひっぱられてる。
すうっ。
ほら、今、また何かを抜かれた。
なんだろう、この感覚。いったい何が抜かれ――。
思い当たった瞬間、茶色は震えあがってまっすぐに飛びはねたよ。ヒザの関節が外れそうなほど足を伸ばして、地面に着くなりダンゴムシみたいに丸まったんだ。丸まって、視界を揺らして歯を食いしばった。
だけど止まらなかった。すうっと心地良い感覚が、穏やかな波のように繰り返していた。ひとつ、ひとつ、ひとつ、ひとつ、ひとつ、とやさしくそれを抜いていく。
今、“時別れの書斎からどうやって帰ってきたのか”を抜かれた。
茶色は地面に食いつくなり慌てて土をひっかいた。記憶をひっぱり返すように乱雑な文字で刻んで記していく。大丈夫、どの記憶が抜けていくかは分かる。忘れてしまう前に短く刻めばすぐに覚え直せるはず。すうっ、という感覚のたびにしっぽを跳ね上げながらも、おちつけ、おちつけ、と土をほじくった。
足元を文字が埋め尽くしたころ、きちんとかけているだろうかと目をやると、思ったよりも読みやすく書けていた。土が飛んで見づらい箇所はあるけれど、読めないところはないし、ちゃんと文章にもなっている。踏んだりもしていない。
わかりやすく書いたんだ。できるかぎり短くて意味の取りやすい文章にした。だけど実感が無かった。夢よりも遠い作り話にしか思えなかった。茶色は地に手をついた。
すうっ。
記憶が持ち去られ、隙間を埋めるように白い靄が入りこんでくる。減っては足され、減っては足され。何度も何度も満たされる、そんな夢見心地の忘却に、がたがたと震えずにはいられない。気づいたときには墓石に頭を叩きつけていた。
「いやだっ」
歯を剥いて叫び、しがみついて頭を擦りつける。それでも白靄はうしろから目隠しをするように迫ってきていた。
まだ話してない、絶対に話しておきたいことがたくさんあるんだ。
墓石に直接刻みつけようとして、爪の先がパリッと割れた。
そうだ、もっと詳しく書けば思い出せるかもしれない。
だけどその考えはすぐに無駄だと思い知らされる。
刻みつける途中で忘れてしまうんだ。
それでも茶色は爪をはしらせた。
“聖秤フェリスの前にはたくさんの神ネコさまが集まって”……なんだっけ。
“ネコ・グロテスクは命を使われたことを恨んでいて”……なんだっけ。
“広場で風ネコさまと間違えてピューマにえさを”……なんだっけ。
“ホロウ・フクロウおじさんはあわあわの”……なんだっけ。
“オーロラネコさまと一緒に宇宙を”……。
“神さまのやま――――――――”
ひっかき傷は止まり、茶色は墓石にうなだれかかってギュッと目を閉じた。
それが祈りだったのかどうかは分からないし、どこかに届いたというわけでもないんだろうけれど、ただ、そのとき吹いた風はとても強かったんだ。
風が、茶色いマイケルのあごを持ち上げ、真上を向かせる。瑠璃色の空にはすらりと長くすじ雲が伸びていて、たどっていくと遠くでパリッと空の割れる音がした。
灰色の雲が向かってきている。
朝はもう、すぐそこまで来ていた。
―――*****
茶色は膝をついて、ひっかいた文字を指でなぞっていった。
お墓に刻みつけたたくさんの物語は、やはりというか寝起きの夢くらいにしか思えなかった。あとで見ればこれのどこが面白いんだというような話ばかりで、しかも中途半端。いったい何を見て書いたのだろうとさえ考えてしまう。
記憶はなくなり続けていた。丁寧に骨を抜きとるような喪失感が繰り返されて、だんだんと間隔は狭まっている。今、またひとつ頭の中の白い靄(もや)の向こうへと、引っぱられていった。
こんなことをしている場合じゃない。
それでも、このできそこないの物語を惜しまずにはいられなかったよ。
「悔しいな」
ため息は墓石にあたり、茶色の顔を叩くように吹き返ってくる。
街は輪郭を明らかにしていき、中心部にある教会の鐘までが色をもちはじめていた。
間に合うだろうか。お母さんネコを探し出す前に、全部忘れてしまうんじゃないか。そんな不安を燃料に、鼓動が痛いくらいに胸の骨を叩いていた。
けれど痛みは、思いもしないところに走った。
見ればしっぽが地面に伏せている。持ち上げようとしても結構な重さがあってなかなか上がらない。なんだこれはと手をのばしてみると、今度は腰のあたりを何かが押し上げた。わっ、と思わず立ち上がる。
ぶるりと震えたのは怯んだからじゃない、急な冷え込みが息を白くしたからなんだ。気味が悪くなるくらいに白い息は、手に吹きかけても長くそこに残った。便箋みたいに白いから、何か書いてやしないかとまじまじと見ていると、
どん。
背中を何かに押され、目玉の飛び出しそうなほど驚いた茶色は、ぎゃっ、と慌てて丘の上から逃げ出した。
奇妙なことは、びゅうびゅうと風が吹く、下りの坂道でもたて続けに起きた。
土から立ち昇る蒸気は不自然に茶色にまとわりついてくるし、道におおいかぶさる木々を潜るときには、左右に広がる林が、風もないのにグラグラと揺れていた。
それだけじゃない。そのさらに向こう、森の暗闇の奥からは、いやに響く小川の流れや樹木の軋み、パラパラと転がる小石や獣たちの熱い息づかいが混ざり合って、喚くような音が耳の中に這入ってくるんだ。そこに霧まで立ち込めてくるものだから、いよいよ足がもつれはじめた。
助けを求めて振り返えったご先祖ネコさまのお墓は、濃い影に覆われて、いつになく恐ろしい。
――――****
坂道を下りきった茶色は、氷の大噴水広場を目指した。
早起きの老ネコたちが散歩をしているあの場所なら、お母さんネコの居場所を聞いて回れるはずだ。そう思って並木道を急いでいると、そこには思いがけずたくさんのネコたちの姿があった。若いネコが多い。
日の出前から何をしているんだろう。
挨拶をして駆け抜けながらも、茶色は彼らにお母さんネコのことを尋ねはしなかった。先のほうからネコたちの声が聞こえたんだ。どんどん大きくなっている。導かれるように広場に入ると、その賑わいは一気に膨らんだ。
氷の大噴水広場では大勢のネコたちが何かを待ちわびるようにじゃばじゃばと騒いでいた。
わっ、と高まる期待感。茶色は急かされるように目を走らせた。
正面、開いた教会の扉から、お祈りをするネコたちのうしろ姿が見える。その左、氷の地下道の入口前には白ネコ修道士さんたちが集まっていた。
その向こうでは、たくさんの壁塗りネコさんたちが、すべての建物をまっしろにする勢いで揃って屋根を塗っている。普段カラフルな家々も、雪が降ったように白くなっていたよ。
眠っているはずの街がこうも活気づいていると、シロップ祭りの朝を連想せずにはいられない。きらめく日の出を待ちわびて、屋根の上から丘の稜線を眺め続けるいつかの自分の姿が頭に浮かぶんだ。
「お母さんネコ! お母さんネコ!」
気付けば声を弾ませていた。
この中にならきっと。
隙間を縫うように滑り込み、ネコたちでいっぱいの広場へと泳ぐように潜っていった。
―――――***
ネコ混みに潜っていたのは茶色だけじゃなかったらしい。
成ネコたちの足元からは、楽しそうにキャッキャと笑う声や「ごめんなさーい」と謝る幼ネコたちの声が聞こえくる。結構な匹数がいるらしい。
いつもなら「こんなところで遊んじゃだめだ」と怒るネコがいそうなものだけれど、なぜか今日は、
「へーきへーき」
「まあ元気ねぇ」
「うちの子も混ぜてあげて」
なんて、明るい声しか聞こえてこなかった。それもそのはず、広場に集まっているのはそういうネコたちばかりらしい。
茶色は1匹、手をつないでキラキラと笑う親子連れのネコたちをかき分けながら、お母さんネコを探し続けた。
白い耳を見ればすぐに近づいていき、茶色い頭を見つければ声をかけた。そうして別ネコと分かるたびに、「ごめんなさい」と謝った。
いつしか、お母さんネコと呼ぶのをやめていた。
甲高いはしゃぎ声がいくつも響き渡るこの広場で、当てもなく母ネコを探し回っていると、1匹だけ目隠しされて笑われている気分になってくる。しかもどんどん記憶がなくなっていくっていうおまけ付きだ。
焦りが募り、見えない手が地面から生えて足をつかんでいるようだった。
けれど茶色は足を踏み出すんだ。
――――――**
ネコ混みは、波のようにうねると、1匹ぼっちの小さな茶色を広場の端へと吐き出した。
低い階段に登って、噴水をとりまく大勢のネコたちを見渡す。するとなぜだか、別の場所でも同じような賑わいを見た気がして懐かしい感じがした。どこで見たんだっけ。
「ねえ、キミ」
聞き覚えのある声だな、とそちらを向けば、丸いサングラスをかけた知らないネコが茶色を見上げていた。彼は「ハァ……」と湿り気のある息を吐き、まっしろな歯を見せて笑いながら言う。
「一緒に、迷子ネコセンターに行こうか」
それを聞いたとたん、茶色はひきつけでも起こしたように硬直して、慌てて階段から飛び降りたよ。心臓が凍りついたんだ。
「逃げなくってもいいだろう。連れて行ってやるから」
「いやだ、やめて!」
腕をつかまれ、足の浮くほど引っ張られた。
頭をよぎったのは、お墓に供えられていた花だった。あれがそのままの意味だった場合、迷子ネコ放送を聞いた街のみんながどんな反応をするだろうか。考えたくはなかったけれどぶるぶると骨が震えた。ジタバタせずにはいられなかったんだ。
困った顔をした成ネコは、何を伝えようとしたのか、上を向いて空を指さす。
「あんまり騒ぐなっ……ほら――」
視線の外れた隙をついて手を振りほどき、呼び止める声を無視してネコ混みの中に潜り込む茶色。さすがに成ネコが成ネコの股下をくぐって進むわけにはいかないようで、あっという間に引き離すことができた。
だけど一息つく暇はない。
股をくぐって逃げたその先で、なぜか小さな幼ネコたちが茶色を見つめていたんだ。1匹や2匹じゃない。見えているだけで20匹はいる。幼ネコたちは茶色と目が合うなり、成ネコたちの股の下をペタペタと高速で這い寄ってきた。
慌ててその場を離れたけれど、反対側にも幼ネコたちが。30匹はいる。
ジリ、と半歩分うしろにさがったのがまずかった。弱気を見たとばかりに、背後から迫っていた幼ネコたちが飛びついてきたんだ。
右手、左手、両足、お腹も腰も、頭にまでまとわりつかれた茶色は、身動きが取れなくなってしまった。幼ネコに比べると身体は大きいけれど、何十匹に抑えられてしまえばひとたまりもない。目をギラギラさせて笑う幼ネコたちに「時間がないんだ」と訴えても声は届くことなく、あはははははと笑う声が、高熱を出したときに見る悪夢のように、頭の中をかき混ぜるだけだった。
「なんで、こんなことを!?」
笑い声の隙間から、ぽっと飛び出した問いかけに、幼ネコの1匹がこう答えた。
「だって今日、雪が降るんだよ」
「意味がわからない!」
幼ネコたちはぐいぐいと身体を引っ張って、茶色をどこかへ連れて行こうとしていた。それにあらがい、重心を低くして進まない一歩を繰り返す。だけど少しでも前に進もうものなら甲高い奇声があがり、倍は引きずり返された。
すうっ。
記憶の残りもあとわずか。忘れたという実感ばかりが募っていく。
ただね、そんな最中におかしな話だけれど、少しだけ嬉しくもあった。こうしてがむしゃらに進もう進もうとしていると、どういうわけか大切な仲間ネコたちの顔が浮かんでくるんだ。
灼熱、果実、虚空。
大切な3匹の姿が浮かんでくる。彼らと過ごした冒険の、“痛み”としか呼びようのない温もりが、茶色の芯を震わせる。
だけど。
どこで出会って、なにをどうして仲良くなったのか、どうしてこんなにも、しがみつきたくなるほど忘れがたいのか。それはもう分からなくなっていたんだけどね。
―――――――*
幼ネコたちに引きずられながら、茶色は考えをただひとつに絞ることにした。
他をどうでもいいと思ったわけじゃないよ。どの記憶もできることなら取り戻したい。手放し難いにきまってる。
ただ、それが無理ならせめてこの想いだけは残したいと思ったんだ。この想いさえ忘れなければ、たとえすべてを忘れたとしても自分は動くはず、求めるはずなんだと、胸の奥深くから声がした。
だから強く強く言い聞かせることにした。
茶色は静かに目を閉じた。
幼ネコたちの重さに目をつむる。
身体に触れるものすべてに目をつむる。
茶色を残して賑わう世界の声に目をつむる――。
ひとつひとつ感覚の目を閉じていき、無音の暗闇に沈んだ茶色。そこで、たったひとつに絞った想いだけを、血を吐くほどの大声で叫び続けた。忘れない忘れない忘れないと魂に刻み込む。なにもかもが擦り切れてしまうまで。
すぅっ、と記憶がひっぱられ、仲間ネコたちの顔が、消えていく。
空の宮殿。廃都市のシチュー。雪のないスノウ・ハット。
そこにあったはずの温かな気持ちまで、冬の透明な空気の中にとけてなくなった。
そして。
静寂が、世界を満たしていく――。
ただし。
「あ、雪だ」
静寂はもうひとつ。
雪の降りはじめた世界と、茶色の世界。
音を無くしたふたつの世界が、ひとつに繋がった。
――――――――
全ての音に耳を塞いだはずだった。
全ての光から目を背けたはずだった。
なのに。
真っ暗闇の向こうから声がしたんだ。
それは光のようにまぶしくて。今にも目玉がとろけてしまいそうで。まぶたを開ききるにはずいぶんと時間がかかったよ。
「茶色」
ゆったりとしたクリーム色のワンピース。タオル地の荷物を抱えた毛艶のいい女性ネコ。服装も雰囲気も大分ちがっているけれど、そのニッコリと細めた目を忘れるはずがなかった。
雪に湧きあがるネコたちの中で、茶色は叫んだよ。
子ネコは走った。群がる幼ネコたちを強引にすり抜けて、その姿から一瞬たりとも目を離すことなく、ロープを手繰るように駆け寄って、最後の距離を埋めるために、茶色は、思い切り地面を蹴ったんだ。だけど。
「だめよ」
思わず涙がこぼれた。
なんで、と立ち止まり、腕で目を拭いながら子ネコを拒んだその手に触れて、両手でぎゅっと包みこんだ。あたたかくて、柔らかくて、少しだけ小さくなった手。そうして見上げた顔はそれでも優しくって、口が震えて言葉も声もでてこない。
お母さんネコ。
あったはずの物語はもう、白靄の向こうにとられてしまったけれど、すかすかの記憶を頼りに、子ネコは心の中で語りかけた。
ボクね、冒険をしてきたんだ。
どんな冒険だったのかはちっとも覚えていないんだけれど、思いっきり駆けてきた。本当の冒険だったんだ。嘘のような、真実の物語さ。
こんな言葉でしか話してあげられないのが悔しいな。もっと詳しく話してあげたかった。だけどね、ボクは帰ってきたよ。お母さんネコと一緒にいたいから、笑った顔を見ていたいから、おいしいご飯もカリカリパイも食べたいから、帰ってきたんだ。
ありがとう、待っていてくれて。
もう、絶対に置いていったりしないからね。
ボクはとっても弱いネコだから、また逃げたくなることがあるかもしれない。だけどね、見つけたんだ。本当に大切なこと。分かったんだよ。
だからさ、これから先、お母さんネコがボクのことを忘れちゃったとしても、構わない。
ボクは、本当に大切だと思うことのために生きていくから。それさえ分かっていれば、真っ暗闇でだって顔を上げて歩いていけるから。だからさ、お母さんネコ。だからね、どうか、今だけでいいから――。
丸い眼鏡をかけた白茶色のネコが、お母さんネコの隣に立った。
すらりとしたそのネコは、お母さんネコと微笑みを交わし合い、肩を支えるように抱くと、その胸に抱えたタオルの中を愛おしそうにのぞき込んだよ。それから、茶色をみてニコリと笑ったんだ。お母さんネコと同じ優しさで、にっこりと。
もちろん戸惑いはあった。だけど不思議と嫌じゃない。そうしているのが当たり前のような、いつかどこかで見たことがあるような……。
風が、たくさんの雪を運んできてくれた。
すうっ、と最後の記憶が抜きとられていく。頭の中が白靄でいっぱいになると、今度はその景色を、他の景色が塗り替えていった。知っているようでいて、もっと賑やかな色で。
ああそうか。
そうだった。
それは、何度となく願ってきた、あったはずの世界の光景だったんだ。口をむにゃむにゃさせて願いたくなるほど温かで、必ず帰りたいと思えるような幸せな景色。
どうりで見たことがあるわけだ。
茶色いマイケルはさらさらの雪をすくいあげるようにゆっくりと、大切に大切に、小さな温かみを抱えた親ネコたちに抱きついた。
雲間から光が差した。
噴水があがった。
高々と噴き上がった水がふわっとひろがって、この世界で初めて昇った陽光をまばゆく散らす。そこに小さな、だけどとびきり鮮やかな虹が、アーチを描いた。
雪が、光の雨となって降ってくる。
氷の大噴水広場に集まったネコたちは空を見上げ、両手を広げて奇跡のような光景を迎え入れる。きっと今、スノウ・ハット中のネコたちがそうしているはずだ。みんなみんな、そこにあるけれど見えない何かにむけて、心からの歓びを叫んでいたよ。
世界からの贈り物。
茶色が茶色でなくなる最後の瞬間、茶色いマイケルは、みずみずしいまでに煌めくこの世界の声をたしかに聞いた。
だからお返しに、いつかどこかでそうしたような、ありったけの想いを込めた一言を、彼らに向けて囁いたんだ。涙いっぱいに笑ってね。
雪が、子ネコの冒険に静かな幕を下ろして光の中へと連れていく。
とっても賑やかな、あの光の向こうへと。
***
変わってしまった世界の中で、わずかに残っていた茶色の記憶は消えてなくなった。新しい茶色の1ページは幸せな始まりかたをするだろう。
だけど、幸せばかりが待っているとは限らない。
だって、いつも多めにもらっていたカリカリパイはもう、4分の1しか食べられないんだから。
『13:スノウ・ハットの新世界と茶色いマイケル』
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